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僕が生涯を賭してやりたい根本的なこと

魚は、水の中で生きる生き物。
 
それを、陸上に引き揚げ、びっちびち跳ねてる様を見て、
 
「なんだあいつ、陸上で息もできないのかよ!(笑)」
 
なんて笑うのは、おかしな話じゃないでしょうか。



人間社会も、そういうところがあるように思えるのです。
 
本来の生息場所ではないコミュニティに、無理やり突っ込んで、そこで呼吸ができない種類の人を、「社会不適合者」と呼ぶ。
 
ペットショップで買ってきたメダカを塩水に突っ込んで、それで全滅したら、ペットショップに文句を言うかのごとき所業。



人は、この地球を、一律「都市」という同じ環境にしてしまいました。
 
本来、
海もあれば、
山もあり、
川もあれば、
草原もあり、
寒い場所もあれば、
暑い場所もあり、
高山あれば、
深海あり、
砂漠もあれば、
密林もある。
 
その中に、都市も「あっていい」のでしょうけど・・・・
しかし、環境は少なくとも都市「だけ」ではないはずなのです。



生き物は、その生態によって、生息場所を選びます。
 
何世代にも渡って適応していくならともかく、基本的には、ひとつの個体は、自分に適した環境以外では生息できません。
 
でもそれを、「弱い」と切り捨てるのは、正しいことでしょうか。



僕は、人間という同じ生き物にしても、その「社会」という生活環境は、いっぱい、多種多様あっていいと思うのです。
ひとつの、大多数を占める種族が生きられる環境だけが、「正しい人間社会」じゃないのではないかと。
 
色んな環境を隣り合わせて、そして、住み分ければいいのです。
 
今の社会だって、そこが生きやすい人がいるんだろうから、そのままでいいでしょうしね。
でも、「今の社会では生きにくい人」には、その人たちを生かす社会環境があっていいと思います。
 
というか、あるべきなんです。
 
勝手にひとつの環境の基準だけで淘汰されていくべきじゃないんです。


なお、極端な話ですが、住み分けさえできるならば、僕は、殺人鬼だって、生きていていいと思っています。
(殺し・殺されのヒリヒリした環境が好きなクレイジーな人だけを集めたコミュニティがあったっていいでしょうに)


「人間」という、生物的な括りだけで見るのではなく、社会的な属性や性質による、「社会環境の多様化」。
それを、もっともっと、進めていっていいんじゃないかと思うのです。






そのためには、ひとりひとりが、
「自分はどんな人間だったか」
っていう、本質を思い出すこと。
 
せっかく樹上での生活に長けたテナガザルだったのに、野原で暮らしていたりしないか。
 
浅瀬にあがってきたアンコウみたいに過ごしていたりしないか。
 
森の中のキリンみたいになってたりしないか。


自分の姿を、自分の本質を、もっと正確に、詳細に捉えられるように、すべての人になっていってほしい。
 
 
その上で・・・・
自分に合ったコミュニティを探し、そこで生きることを決める。
 
テナガザルは森を、
アンコウは深海を、
キリンは平原を、
 
それぞれ見つけて、そこで生きよう。
 
 
 
 
この、
「自分がどんな生き物だったか思い出す」
ってことと、
「自分に合ったコミュニティを見つけ出す」
ということ。
 
これらに、力をこめてやっていきたいのです。
 
それが、僕のやりたいこと。
 
僕が考える、僕の根本的な生き方。
 
『箱舟』という名前をつけた、人生を通したプロジェクトです。






「世界をひとつにしたい人」
っていうのは、います。
それも、分かります。
 
でも、そうしたい人っていうのは・・・・怖いんです、きっと。
自分とは違う、でも自分に近い、自分には分からない「他人」がいることが。
 
だから、自分の理解できる範囲に、すべてを収めていたいんじゃないでしょうか。


でも、本当は、大丈夫なはずなんです。
 
怖がっているのは、自分自身すら、本来の自分がいるべきじゃない場所にいるから。
「傷つけられること」が当たり前の世界を生きているから。
 
大丈夫なんですよねー、本当は。
 
自分が、当たり前に自分らしくいられる、そういう人たちの中で生きることができたら、他人を怖がる必要すら、本当はなくなるんです。







この世界、この地球には、色んな場所があり、色んな景色があり、色んな美しさがあるように。
 
人間もひとりひとりが、自分の本質を思い出し、自分の息がしやすい場所を見つけ、そこで生きていくことができれば・・・・
そして、そんなお互いの環境を、認めあえれば。
 
ただただ、そこには、美しい光景ばかりが、広がっていくと思うんです。
 
 

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