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早朝の「逝去しました」に思うこと

やっと仕事が休みになった日の朝。

久しぶりに覗いたTwitterのタイムライン
いちばん先頭に表示された「逝去しました」の文字。

一瞬、時間が止まってあたまがすぐに理解しようとしない。

Twitterしていると、フォローしていなくても年に数回は見かけてしまう

「かねてから療養中でしたが‥」

のご家族の代わりのツイート。

どこのだれかも分からない故人。

そのどこのだれか分からない人のために

「逝去しました」

にはたくさんのいいねとリツイートする人が後を絶たない。

私もやっぱり、「いいね」してしまう。

どこの誰かわからなくても「お悔やみ申し上げます」と伝えたい。

早朝の、雲がうすく赤い色に染まって、1日がはじまろうとしている時間帯に終わりを告げるツイート。

「逝去しました」のツイートを見るたびに、代わりにツイートされるご家族のつらさをおもう。

どんなふうに生きていたのか
なにを思いながら死を迎えたのか

ご家族もきっと思い返しているだろう。

故人のアイコンをタップしてしまう。

その人の物語を知りたい
縁もゆかりもない人なのに、変だけど。

のぞいたら自身のツイートはなく、リツイートが並んでた。

まだまだ生きたかっただろうな

この人に今日は来なかった
私には今日が来た

こういうツイート見かけるたびに
私はこれでいいのかな?
って自問することが多かった

今はちがう

もっともっと生きてやろうとおもう。

人生も半分を生きて諦めとか開き直りではない、なにかちがう感情が湧いてくるようになった。

意味のあることもないこともたくさん考えて、たくさん学んで

「やらない後悔より、やる後悔」

を意識するようになった。

役に立たなかったとしても、知らないより知った方がいい。

私の人生なんて無駄だらけすぎて笑える

どう生きたらいいのか
やりたい事がわからない

何をしたらいいのか
どう頑張ればいいのか

こんなに考えて生きてるのに。
つい最近まで途方に暮れてた。

どういう変化が起きているのか、書き残していこうと思う。

同じように迷ってる人のなにか助けになればいいな。

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