モノクロ印画紙作品と墨書作品の共通点と相違点(仮題)
※この記事は、僕の思考が纏まったり進んだりほどけたりするたびに加筆削除修正されていきます。したがって大変読みにくい乱文が続くことになると思いますが、それでも大丈夫な方だけ読み進めてください。
2024年3月、兵庫にいた僕は前々から気になっていた写真展を見に行くことにした。これはTwitterのFFさんとか、前から(一方的だが)知っていたドクターが参加されているものであった。
ここで様々な写真作品(特に僕にとっては銀塩で焼いた作品)に触れて刺激を受けた僕は、山陽電車で姫路に戻った。姫路についてからはCONTAX 139 QuartzとPlanar 50mm f1.7を連れて、御幸通りや姫路城周辺を撮り歩いた。そんな中ふと立ち寄ったイーグレ姫路で、かつて僕が書道を習っていた先生が書道展を開いているのを見かけた。
先生が定期的に書道展をされているのは知っていたし、なんなら在籍当時は出展もさせていただいた。ここで見かけたのも何かのご縁だと思い(実に15年ぶりとかである)、拝見してから帰ることにした。
モノクロ銀塩写真をやるようになった今あらためて書道を見ると、モノクロと墨書の間に近しい点が多数あることに気づいた。以下ではこれらの発見について述べていこうと思う。(車輪の再発見であろうが、自分の言葉にしたということが大事だと思って続けていく)
事前準備
書道作品(以下墨書)とモノクロ印画作品(以下銀塩写真)の制作における共通点等について述べる前に、以降で用いる言葉について先に定義しておく。
背景情報
ここでは作品観覧時に現れないが作品が持つ情報についてを「背景情報」と呼称することにする。具体的には、
撮影者/作者情報:誰が作品制作を行ったか
引用物情報:何を写したか、何を書いたか
引用物情報:どこを写したか、誰の著作物か
機材情報:どのカメラやレンズ(フィルムやソフト)、薬剤を用いたか、どの筆や墨を用いたか
紙情報:"どこの"紙を用いたか
のように一旦定義出来ようか。尤も、機材や紙に関してはそれこそ「弘法筆を選ばず」と言ったもので、気にしているのは専らあまり制作に携わらない外野だったりする。ちょっと耳が痛い。
内的情報
ここでは作品の持つ物質的な情報についてを「内的情報」と呼称することにする。具体的には、
紙情報:"どんな"紙を用いたか
構図情報:フォーマット、被写体や文字の配置など。組写真の組み方も含む
階調情報:コントラストやシャドー/ハイライト、墨の濃淡など
であろう。
外的情報
完成した作品(≒プリント状態)に対して後から加えられる情報を「外的情報」と呼称することにする。具体的には、
装丁情報:額装や表装
ライティング情報:作品を見せるための投光
空間情報:展示物を取り巻く展示物以外の空間の作り方
という風に規定した。
墨書と写真の評価点
基本的に芸術が作者から受け取り手まで伝わっていく流れはどのような作品形態であっても大差はないと思われる。上記のように整理をすると、特に背景情報と外的情報においてその傾向が顕著で、とりわけ今回話題にしている墨書と写真ではほぼ全く同じといっても過言ではない。
では前項で"ほぼ"と言った”共通”ではない”類似”点について考えていこうと思う。
当然ながら墨書では表意文字を用いるため、写真における構図のようなフォントやバランスとは別軸で、テキストの持つ意味がかなりのウェイトを占めてしまう。それは時に,、写真では明文化されていないが故に存在した想像の余地を削ってしまっているように、同時にテキストの内容に仮託した情報が力を持つように感じる。
もう一歩踏み込んで、詭弁を弄してみようと思う。
文字は絵から始まった。最初は単純な線画だったろうが、それがいわゆる二値化された状態になり、濃淡が生まれ色が生まれた。また文字は、長らく黒白の状態がデフォルトであった。墨書作品には
自身の写真鑑賞におけるetc
ここまで長々と乱文を書き連ねてきたわけだが、
追記:
これを書き始めたのは3月の上旬であるが、卒業に就職にとイベントを重ねているうちに気づけばGWも終わってしまった。2か月間ふんわりと考え続ける中で、ともすると写真と墨書の間をつなぐ存在を忘れていたことに気が付いた。それはすなわち「水墨画」。残念なことに僕自身があまりにも触れたことがないため言及は避けるが、鑑賞の機会があれば是非思考を巡らせたいと思っている。
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