吾の遍歴と芸術に対する持論について。その2
ここからは持論というか最近の愚痴が入る。
二十も目前になった吾は、大学に入り管弦楽団と写真部の門を叩いた。先にも書いたように吾のなかでは写真の方が自己の表現技法として上位に来ている。従って大学でも管弦は趣味で、写真は自身を削ってやることとなった。先に断っておくが決して音楽や団体の存在、団員を軽視しているわけではない。
人間のリソースとは有限なものなので、生存に必須な事項(代謝と家事全般、職業も含むであろう)、社会的存在に必須な事項(学業)を除いた僅かな分を趣味に充てている。よく飯を削って趣味に充てる、などと言うがその場合においても生きて趣味を続けている限り必須の程度を超えない。例外はマッスル北村ぐらいしか知らない。
写真>管弦でやっていた吾であるが、在団二年目にして学生指揮となってしまう。基本的に学生指揮者は自分を表現する職掌ではない。演奏を構築する愉しみ(これもそこそこ魅せられてはいる)は大きいものであったが、自己表現(つまり演奏)に割けるリソースはうんと減った。両立したくはあったが、吾のキャパシティはそこまで大きくないので仕方がない。指揮は削れないし第一選択の写真も削れない。写真を削るのは自己を直接削ることになる。この様な吾であったが、それでも温度差、技量の様々な人間が集団で何かを為している以上、求められるクオリティ"最低限度"はクリアしていく必要があった。まるで日本国憲法における「健康的で文化的な最低限度の生活」の様なものである。
表現は他者からの受容・評価が必須である。コンマス等の他の演奏トップは、本番も自身の演奏であるし、身につけた演奏技術は今後の自己表現の糧となる。しかし学生指揮は、基本的に本番は振らないし、その技術は卒後活かされることは全くと言っていいほど無い。アマオケでも設立すれば出来るかもしれないが、それが出来るレベルの指揮技術を一学生の身で物にするのは困難を極める。
入部3年後にはコロナ禍が始まった。管弦の入部では楽器のコンバートがあり、元々あった演奏へのリソースをも指揮によって削られ、さらに少ない演奏・指揮の機会をコロナによって削られた。モチベーションを失った吾は、しばらく部活に顔を出さず北海道を放浪したり、試験を理由に行かなかったりしていた。そんな吾に対して、嫌悪の声も多々あったらしい。さて吾はどうすれば良かったのであろうか。やる気はあるのか、などと言われても音楽が第一選択でない吾にどうしろと言うのか。趣味の選択順を繰り上げるか?他人のために?
元来吾は他人に対する期待値が低く、嫌悪に至る閾値は高いし、悪意や怒りは疲れるだけなので極力無駄、というスタンスである。そんな状態の吾に、前記のような事を言われても対処に困る。極論、滅私奉公を求めると言われているように思えてしまう。いつぞやTwitterで呟いた「いろんな人の自己表出の手段が知りたい」というものここにつながる。どの様なつもりで演奏をしているのであろうか。三度の飯より音楽が好きだとか、吾が自己を削って写真にするように自己を削って音楽を奏でているなら解るのだが、そういう人"でないであろう人"が特に目立つ。そしてその目立つ人に限って吾の不満を漏らす、らしい。訳がわからない。尤もネガティブな感情というのは受け取らなければ問題にならないので吾は鈍感に過ごそうとしていたのであるが、割と分かりやすく投げられると非常にしんどいものである。
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