コミュニティを問い直す


プロローグ
重曹社会、つまり人間の社会は個人と社会との間に中間的な集団が存在することに本質を持つという視点を手掛かりとして、人間のコミュニティ(その原型としての家族)というものが「関係の二重性」-(象徴的には母子関係に代表される)「内部」的関係性と、(父親が子育てに関わるという独自性に由来する)「外部」的関係性の両者を持つこと-に特徴付けられるということを論じた。
こうした意味での人間のコミュニティ(あるいは関係の二重性という構造)が成立する際に、例えば脳において何らかの物質レベルでの変化に伴う変容が生じるかどうか。

コミュニティの人類史の次元

コミュニティのポスト資本主義の次元

コミュニティの日本社会固有の次元
紀元前5世紀頃頃、精神革命と呼ばれる事象が地球上のいくつかの地域で同時多発的に起きた。ギリシャにおける哲学思考、インドでの仏教思考、中国での孔子をはじめとする諸子百家の思想、イスラエルにおける旧約の思想である。これらは、当時の人々に「人間」なるものという普遍的な観念が生まれたということがポイントである。どういうことかというと、もしある人が、ある個別の共同体の中にどっぷり浸かって生活をしていたとすると、そこでは「人間」という自覚的な観念は生まれてこないだろう。そうではなく、複数の共同体内し民族(あるいは文化)が出会い、互いの「相違」を強く感じ、しかし(自分の側だけを正当化するのではなく)そうした違いを超えてある共通の何かをそれら異なる共同体の人々が持っているということを(第三者的・超越的な視点から)見出すに至った時に初めて、個々の共同体や民族、文化を超えた「人間」なるもの、という明確な観念が生まれるはずであろう。それがまさに「普遍的な人間という観念」や「宇宙の中における人間の位置」をめぐる思索ということに重なるのである。同時にそれは、「個々の共同体を超えた人間」という意味合いを持つことから、自ずと「個人」という明確な意識の自覚を伴うものであるだろう。
精神革命の時代に生成した思想は異なるコミュニティ(ないし民族、文化)が共存していくための原理として、すなわちそれら複数のコミュニティを「つなぐ」原理として生成したということ。
ではなぜ、精神革命のような、普遍的な思想が生まれたのか。その背景は何だったのか。伊藤俊太郎は、それは騎馬民族の移動ということが大きな契機ではないかと論じている。「すなわち定住的な農耕民族の大地母神的な静的な母権的文化に対し、騎馬民族特有の父なる天の神を信ずる変動の多い、因習打破的な合理主義の父権的文化が侵入し、そこに一つの共通した文化変容を引き起こしたと考えられるのである。」この、一定段階に達した農耕民族と遊牧民族の接触ということを中心とする、農耕文化の成熟化・定常化の時代に異質なコミュニティの出会いが劇的変化の引き金となったのではないか。

極めて巨視的な展望となるが、人間の歴史を大きな視野で振り返ると、そこに三度の「拡大・成長」と「成熟化・定常化」のサイクルがあったことを見出すことができる。「人口」に関して言えば、三度の増加期があり、人類が道具を使用し始めた10万年前、農業を始めた紀元前8000~4000年、近代科学が生まれた18世紀以降となる。
また、人間の歴史には「狩猟段階ー農耕段階ー産業化(工業化)段階」という三つの拡大・成長というサイクルがあった。
これらは、物質的な拡大・成長から、内面的な深化や、欲望の再現なき拡大の「抑制」へという方向を共通して持っていたのではないだろうか。
逆に各段階の後半期を占める定常化の時代とは、資源制約の顕在化やある種の生産過剰の結果として、人々の主たる関心が「人間」と「人間」の関係あるいは「人」そのものに移り、個人や文化の内的な発展あるいは質的深化とともに、コミュニティというテーマが前面に出る時代となる。

*日本における「文明の乗り換え」と"普遍的価値原理の空白状況”
紀元前五世紀前後の「精神革命」を契機に、そうした「普遍的な思想」が地球上の各地域に広がっていき、そのリージョナルな住み分け”がなされたと述べたが、日本についてはどうか。日本は東アジアにおける「仏教・儒教圏」の辺境に位置することになり、そうした普遍的な思想と、ローカルな自然肩仰(後に神道と呼ばれるようになるもの)を混合させていったことになる(こうした在来仰と外来の普遍的思想の混合というパターンはヨーロッパ、アジア等を含め世界の各地域において広く見られる)。
しかし明治期以降、欧米列強の進出に直面する中で、日本は西欧近代の思考枠組み及び技術へのいわば「文明の乗り換え」を行った。しかしその基盤にある価値原理(キリスト教)
は受容せず、かつ江戸期までの(仏教・儒教の)価値原理は大方捨象していったため、ここに”普通的な価値原理の不在"という、目に見えにくい、しかし深刻な事態が生じたことに
なる(もちろん明治政府はそれを天皇を中心とするナショナリズム的な価値原理によって置換・統
くしょうとしたわけであるが)。
さらに第二次大戦の敗戦により、そうしたナショナリスティックな価値原理も否定されることになり、戦後の日本社会は文字通り”価値原理の空白”に置かれることになった。その結果、戦後の日本人にとって事実上ヶ宿仰”とも呼べるような絶対的価値になったのは、他でもなく「経済成長」という目標であったといえるだろう。

私たちは3度目の定常化の時代にいる。それは、普遍的な原理を志向する思想が地球上で同時多発的に生成した時代とある意味で同型の時代状況ー拡大・成長から成熟化・定常化への移行という点においてーであり、その意味において、再びそうした何らかの新たな根本的な思想の生成が待たれている時代ではないか。そこでキーワードとなってくるのが「有限性」と「多様性」ということである。
「有限性」
これは「宇宙に多ける地球」という概念で、「精神革命」の時代では宇宙における人間の位置という、無限の中の人間という認識で、地球という有限な舞台の中に住む人間という発想は極めて希薄だった。これに対して現在では、環境問題などを通して、地球という観念が人々の日常の意識まで浸透するようになっている。これが精神革命の時代と根本的に異なる状況である。そこで、果てのない宇宙が有限性を持った地球に置き換わり他方人間の方は普遍性や独立性を持った存在であると同時に地球というコミュニティの一員としての存在という意識が、おそらく世界史上初めての形で生成しつつある。
「多様性」
精神革命の時代に生成した思想群は、「普遍性」への志向を持つと同時に、しかしそれを一歩外から見ると、それぞれはその生まれた地域の風土的環境を色濃く反映した世界観を持っていた。実際にそれらの思想や宗教は地球上の各地域においてリージョナルな住み分けを行うという形になり、そうであるがゆえに、それぞれが普遍性を主張して入られた。しかし現在のグローバル化の時代にはこうした形での共存は困難である。

それには普遍性よりもむしろ多様性ということを積極的に取り込んだ思想ないし哲学の可能性であり、地球上の各地域の風土的・文化的な多様性やローカルな独自性を重視して、そこから出発するという方向である。こうした点は、単に哲学や理念の問題ではなく、ローカルからグローバルに至る様々な制度や社会システムをどう構築していくかという、ごく現実的な次元とも直結する。

「地理的多様性」を組み込んだ思想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?