土をならすだけならさほど手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾らのために道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。

どの世界にも権威というものはあるが、医者には特に権威主義的な人が多いようだ。譲らぬ岩のような存在は、それこそ岩の数ほど多い。

春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。

春の眠たさに身を委ねるものよいが、愉快な醒め方というものがある。一面の菜の花、一面の空気を刺すような雲雀の声。静けさのなかで時折屹立するような美。

腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。

自然を景色そのまま画として詩として楽しめ、という漱石先生。

わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。

しかし楽しむためには、第三者の地位に立たねばならないという。当事者になれば利害の渦に巻き込まれる。画の中には入っていけないから画として見ることができる。

超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。

陶淵明の詩で湯に浸かっているような表現で好きだ。精神の湯浴み。

いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募ってはおらん。こんな所でも人間に逢う。(中略)百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。

出世間的、酔興と言いながら、人間としての限界(冒頭)は弁えているから、ちゃんと漱石の振り子はこのように戻ってくる。風船を空に放っておしまい、にはしない先生。(小説全体もそういう骨格を持っていると思う。)

四方はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃かでほとんど霧を欺くくらいだから、隔たりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれ
有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。

即天去私を雨の中で体感する。

初めは帽を傾けて歩行た。後にはただ足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。

雨の中を歩むうちに判然としてくる孤独を描く、美しい文章。病床の暗喩とも思われる。

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