好悪あるいは快不快について

 僕の愛読書のひとつ、「侏儒の言葉」より引用する。

我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。

芥川龍之介「侏儒の言葉」

 この文章に初めて触れたときの驚き、というよりも、安堵が忘れられない。なぜ安堵したのかといえば、それまで自分の中でもやもやしてくすぐったかった所を一度に爽快にしてくれるような不思議な力を感じたからだ。芥川のアフォリズムはさすがに一級品で、有名な「人生は一箱のマッチに似ている」の言に至っては、僕には文字が輝いて見えた。以来、特に喫茶店などで煙草を吸う時はマッチによっている。
 話が少し脱線したが、好悪あるいは快不快が行為を決している。誠にその通りである。普通、行為の源泉は意志のように思われているが、決してそうではない。意志→行為の図式は一見すっきりした因果を表しているが、ことはそれほど単純ではない。いや、ことはもっと単純である。
 もし仮に意志というものが存在したとして、それが行為を決するならば、行為は常に「待たれる」ものである。しかし、行為はすでに行われることがしばしばあり、後になってその原因を意志に求めるのは、いわば社会的要請による場合が多い。例えば犯罪において。
 行為を決するのは好悪である。あるいは我々の快不快である。
 ここから二つの考え方があろう。第一。どれほど思考しても所詮人間の行為はすべて好悪から生ずるのであって、全ての理屈はあとづけに過ぎぬ。故に思考することは無益である。第二。どれほど行為してもそれは好悪に従って生ずるよりほかない。故に、行為をより好ましいものにするような快楽とは何か、考えてみることである。
 森鴎外が「青年」という小説でいっていたように記憶するが、快楽主義を徹底していくと「あとばらを病む」ものを避けるようになる。真の快楽主義者は、快楽を得たのちの快楽も求める。酒は飲み過ぎれば二日酔いになる。鴎外によれば、あとばらをやまないものは芸術あるいは学問である。これはきっと経験的なものだ。駆動可能な知性の範囲の異常に広い鴎外先生の言うことであるからそうなのだろうとしか思われない。
 さてまた話が脱線したが、どのような快楽が良い行為を生むだろうか。そもそも良い行為とはなんだろうか。少なくとも、再びつくることの難しい価値を破壊せず、できれば、新しい価値を生み出すもの、と僕は考える。新しい、というのは我ながらポイントである気がする。同じことを反復する行為は減衰し淀む。
 どのような快楽が新しいものを生み出すだろうか。発見する喜び、つくる喜び、美しいものに触れる喜び…
 

我我は人生の泉から、最大の味を汲み取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。』耶蘇さへ既にさう云つたではないか。賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。

同上


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