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パジャミィに出てくる女の子はアプリコットの女の子

こんにちは葦原です。
まずは以下記事を御覧ください。

今回はこの記事への反論にちかい内容になります。

言い訳がましいことを書きますが、
私は、自分の解釈だけが絶対であると考えたり、他人の考察を頭ごなしに否定する行為は、自身の視野も作品の価値も狭めてしまう愚かしいことだと思うので、基本的には他人の考えの否定はしたくないのですが、今回は彼の考察にすこし口を出す記事を書きます。もともと極ボッチとはリアルに交流がある仲ですし(友人なので敬称略でいきます)、極ボッチ本人もむしろ書いてくれと言っていたので。
この記事はほとんど冗談半分に書いているものだと思って読んでください。

けして極ボッチや彼と同じ考えを持っている人を貶したり、またこの記事内で語った内容以外を許容しないという意味ではないので、その点は理解していただけると嬉しいです。



彼もパジャミィの二人が好きだと言っていましたが、私も彼と同じかそれ以上に二人が好きです。
そして、パジャミィという曲は、アプリコットを踏まえたうえで苦しみながら聴くべきものだと考えています。
最後は地獄に落ちるだけとわかっていながら笑ってお別れするからいいんですよ。アプリコットという未来があるからパジャミィの儚さや切なさが際立つし、パジャミィという過去があるからアプリコットの残酷さが際立つのだと思います。

みなさんもぜひパジャミィ⇒アプリコットの順で聴いて情緒をめちゃくちゃにされましょう。

つきましては、今回の記事では極ボッチが上げていた「パジャミィの女の子≠アプリコットの女の子」という説の根拠を一つ一つ見直していく形で記事にします。



◯呼称について

以前書いた記事では、金髪の女の子を「パジャミィ」、黒髪の女の子を「アプリ子」と仮に名付けて読んでいましたが、今回はアプリコットとパジャミィが無関係な作品であるという説について論じるので、パジャミィに出てくる黒髪の女の子を「アプリ子P」(PはPajamyのP)、アプリコットに出てくる女の子を「アプリ子A」(AはApricotのA)という呼称を記事内では使います。


パジャミィ
アプリ子P
アプリ子A




根拠➀
アプリ子の象徴である黄色いリボン に対して


根拠➀で極ボッチは、
アプリ子Pにはアプリコットで象徴的に描かれている黄色いリボンが描かれていないため同一人物ではない根拠となる、ということを述べています。


確かに、アプリ子Pにはリボンが描かれていませんが、そもそもアプリ子Pはパジャマなんですよ。
普通寝るときにヘアゴムは使ってもリボンはつけないと思います。
後に出てくる服装の違いも同じ理由で説明できます。

また、パジャミィとアプリコットが完全に無関係だとするのならば、3rdアルバムのジャケットの子は誰なのか、という話になります。
3rdアルバムにアプリコットは収録されていないので、別人説を取るとこのジャケットにリボンを付けているアプリ子Aが登場するのは不自然です。

ジャケ絵が良すぎる
リボンある




根拠②
同一人物判定 に対して


根拠②で、極ボッチはいよわ楽曲内で登場する同一人物を判定する基準として、➀顔②髪型③服装④髪の色⑤目の色⑥MV、歌詞内での言及 という六観点を同一人物か否か判定する基準として提示し、それに照らしてパジャミコットを分析しています。

極ボッチは記事内でパジャミコットとマーシー乙女の二ペアを比較しており、それぞれの極ボッチ評価は以下のようになっています。

◯パジャミコット


◯マーシー乙女


極ボッチいわく、パジャミコットは髪型以外は難有りという判決をしていますが、果たしてそうでしょうか。
顔のつくりについては判断がやはり主観的なので保留します。また、歌詞MVでの言及については概ね同じ感覚を持っているのでこれもおいておきます。

ただ、髪色や目の色については、マーシー乙女が◯ならパジャミコットも◯とは言わずとも△くらいにしてもいいのではないかと思います。

(↓)実際に髪色を抽出した比較です。

髪色比較とほとんど同じですが、瞳の比較です。

髪の色はマーシー乙女とパジャミコットで大きな差があるようにも思えますが、瞳の色の比較は両者の差もトントンくらいじゃないでしょうか。
マーシー乙女が◯判定ならパジャミコットでも△くらいはもらってもいいと思います。

また、これは推測ですが、アプリ子Aの髪色がアプリ子Pと違うのは背景色との兼ね合いで目立つような色にしているとも考えられます。

グロいハンバーグみたいな色だね

アプリ子Pの髪色をアプリコットの背景色の上においてみると、少しインパクトに欠けますよね。
背景との対比でよく目立つように黒く描いたとは考えられないでしょうか。




根拠③
怖い声が言った について


根拠③で、極ボッチはアプリ子PとアプリコAとが同一人物とした場合、自身の声に対して「怖い」という表現になるのは不自然である(例えばディアマイウィッチクラフトでは「同じ声」になっている)と述べています。
また、パジャミィの楽曲内で流れている二通りの初音ミクの声(一方がパジャミィ他方がアプリコPだと思われる)が、「怖い声が言った」については両方の声が聞こえるのでアプリ子Aと、怖い声の主は別人であると述べています。


これに関しては、本当に解釈の差異でしかなので反論にならないですが、そもそもアプリ子Pの「怖い」という感情は、声に対して向いているのではないと思います。
私はアプリ子P=アプリコAのスタンスなので、閉じたドアの向こうの「怖い声」すなわちアプリコAは、アプリ子Pの未来なので、パジャミコットで一貫して描かれていた「成長に対する恐怖」を考えると、アプリ子Pが「怖い声」に感じていた恐怖感情は声に対するものではなく、声すなわち未来に対する恐怖と考えることができます。

パジャミィ内での二通りの声についても、極ボッチも言及していたとおり声変わりで声が違うのもありますし、単純にアプリ子Pとアプリ子Aは、同一人物の時間軸上の2つの点を切り取ってそれぞれ別の人格のように描くという表現法だと考えれば、必ずしも別人足り得る根拠にはならないと思います。

アプリ子Aはパジャミィをもう失っているので、別人格として対比させることができるほど性格が変容しているのも納得できます。





根拠④
ドアが示す意味 に対して


根拠④で極ボッチは、ドアを「夢の世界への入口」として捉えると、「パジャミィ」においてアプリ子Aは恨み言によってアプリ子Pを「起こす」存在として描かれているが、同一人物説を取ると、未来の自分が過去の自分を起こしに来ているという不可解な状況になる。
また、「ももいろの鍵」で描かれていた「パラレルワールドの未来」という意味合いでのドアとした場合も、未来の自分が過去に干渉するという本来有りえない(いよわ楽曲内でも前例がない)状況になるため、矛盾が生じると述べています。


根拠④に関しても解釈の差異でしかないので、理論だった反証はできません。なのでここに関しても私の個人的な解釈を話します。

まず、ドアの持つ意味については、極ボッチは「夢の世界への入口」と、「パラレルワールドの未来」という2つの可能性を挙げていましたが、私はこの両方を併せ持ったものだと考えています。

この扉はおそらく寝室のドアなので、パジャミィと会える夢の部屋への入口であり、同時に、朝(昼間)と夜を分かつ境界のような役目も果たしていると思います。
パジャミィの過去記事でも書きましたが、「パジャミィ」において朝と夜は単純な時間帯の区分以外に、比喩的な意味も持っていると思います。
「夜」はすなわち夢の時間、成長していくアプリコPの「心の時間稼ぎ」を象徴する時間です。そこから対比すると、「朝」はすなわち現実の時間、パジャミィが「心の時間稼ぎ」によって癒そうとしていたアプリ子Pの傷や痛みを象徴する時間です。
パジャミィの歌詞の中でも「苦い朝」や「朝焼けが背中を刺した(差したや射したではない)」と表現されていて、朝を否定的なものと捉えていることが分かります。
ここで朝が象徴している「現実」とは、成長するという避けられない未来や、それに伴って理解していく、パジャミィが虚構だという事実です。
この「パジャミィが虚構であるという悟り」の観点を考えると、歌詞内の「お願い目覚めを忘れたままで」というフレーズは、起床としての「目覚め」と、現実を直視するという意味での「目覚め」のダブルミーニングになります。

このように「夢の世界への入口」としてのドアは、朝(=現実、成長への恐怖)と夜(=夢の時間、心の時間稼ぎ)を分かつという側面も持っています。

続いて、「パラレルワールドの未来」としてのドアについてです。
これは「ももいろの鍵」で登場するドアの解釈です。ももいろの鍵の過去記事を参照していただければ分かりますが、MV内の描写から、ももいろの鍵はパジャミコットと明らかな関連性があります。

特に前者の画像では、扉を何かを分離する境界のように描いているので、ももいろの鍵のドアのもつ「未来の可能性」という意味合いはパジャミィにも適用できます。
ただし、ももいろの鍵と違うのは、パジャミィにはドアが一つしかないということですね。
避けられない成長や未来を恐怖としてしか捉えられなかったアプリ子に対して、ももいろ(百色)の鍵のももちゃんは「煌めくライトも落ちる影も」全て愛して受け入れるという未来を選択できたということです。

ここまでがドアについての私の解釈です。
文章が下手すぎてすごく複雑になったので、ドアとパジャミコットの関係図を貼っておきます。
たのむ伝わってくれ。

極ボッチの説では、同一人物説を取った場合、過去の自分を未来の自分が起こしたり、未来が過去に干渉する時間逆行がおこるため、不可解で矛盾が生じるという主張でした。

私はパジャミィで怖い声の主として登場するアプリ子Aは、もっと抽象的な存在だと考えています。
「朝」が未来や現実の象徴であるように、扉の向こう側にいるアプリ子Aも、未来や現実の象徴的存在なのだと思います。
なので、アプリ子Aはアプリ子Pを明確な意思を持って起こそうとしている、というよりは、アプリ子Pの避けられない「目覚め」を比喩的に表した表現なのだと思います。
時間逆行についても、扉の向こうのアプリ子Aが主体性をもってアプリ子Pに干渉していると言うよりは、アプリ子Pが未来や現実に気づきかけているため、未来・現実の比喩であるアプリ子Aの姿が見えて声が聞こえるということなのだと思います。
まず、パジャミィをアプリ子Pの心情に即して大まかに区分すると、以下のようになります。

➀1番
パジャミィとの出会い。アプリ子Pはパジャミィの存在を確信している。
パジャミィと会うまではまだ夜を怖いものとして認識している。

②2番の最初〜「こころをちょっと擦りむいただけ」
「みんな嘘をついている」やパジャミィと手を繋げない描写から、アプリ子Pはパジャミィの存在に疑念を抱いていると推測できる。また、朝(=現実・未来)に対する否定的な表現もここから始まるので、大人になっていくに連れて、様々な現実に気づき始めているとわかる。

③「怖い声が言った」〜「地獄に落ちるだけなのに」」
ここで気づきかけていたものが確信に変わる。アプリ子Aの発言はその比喩。

④「映画も陽だまりも卒業式も」〜最後
お別れ。成長したアプリ子Pはパジャミィとお別れしなくてはならない。



アプリコットへ、、、


ああ、、、なんか状況整理してるだけなのに感動してきた。もはや「映画陽だまり卒業式」という単語の羅列で反射的に感動する生き物になってる。
パジャミィ大好き。ありがとう。

気を取り直して説明に戻ると、アプリ子Aが登場するシーンは③の区分に当たります。この区分は②の疑念が確信に変わる場面であり、アプリ子Pにとっての「目覚め」でもあります。
アプリ子Pが知覚しているアプリ子Aの姿や怖い声はいわば②の疑念から生じた、未来の幻覚や幻聴のようなものだと思います。(パジャミィがアリなので幻覚や幻聴自体はなんら不自然はありません。)
大人になっていくに連れ、自身の未来やそこにある現実に対して予期的な思考ができるようになります。
ここでのアプリ子Aはアプリ子Pが未来へ投企した自己の現れといってもいいかもしれません。

文章が下手すぎてすごく複雑になったので、ドアとパジャミコットの関係図を貼っておきます。
たのむ伝わってくれ。


図すらわかりにくくて申し訳ないです。
要するに、アプリ子Pの未来志向の結果「怖い声」のアプリ子Aが生み出されたのであり、その矢印は時間軸の矢印と一致しているので、時間の逆行は起こっていないということです。

最悪パジャミィとアプリ子がかわいいということが伝われば十分です。





極ボッチの記事に対する反論?は以上で終わりです。
根拠③や④については、どうしても主観的な解釈の押し付けあいのようになってしまうので論理的な批判はできませんでした。
「ドアの装飾が遺影に見える」とかは普通にめちゃくちゃ面白い解釈だと思いました。
確かに遺影っぽい。


冒頭にも書きましたが、この記事は反論という体をとっていますが、他者の考えを否定したり、自身の考えが絶対的なものだと主張する意図はありません。
あくまで一つの個人的な考えとして読んでください。

正直、「パジャミィが好き」という点で一致していれば残りの要素は些末な誤差に過ぎないので、解釈は多いほうが楽しいと思います。




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