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BAR

私は深夜のひんやりとした
空気を感じながら、
四月の半ばとは思えないほどの
肌寒さに小さくすくんだ。
時計はすでに七時半を回っていたが、
このバーには私以外に客の姿はなかった。
その店の片隅で丸くなって寝ている
一匹の猫を除いてということだが。
私は店内に流れるビル・エヴァンスの
ピアノソロを聴いていた。
「Time for Love」が素晴らしい。
呼吸が深くなり、
ゆったりとしたリズムに合わせて
体が調整される。
そんな静けさの中、一人の男が入ってきた。
彼は何度もこの場所を訪れているようで、
迷うことなくカウンターの
一番奥の席に腰を下ろした。
男は、コートを脱ぎ壁に掛けると、
静かな声でビールを注文した。
その一連の動作は、
長年の習慣によって磨かれていった
ものなのかもしれない。
あるいは、そうじゃないのかもしれない。

私は隅の席から彼の様子を見つめていた。
長めの前髪がやや無造作に横に流れ、
がっしりとした体格で肩幅が広く、
鋭い目つきからは何かを
深く見つめる独特の集中力が感じられた。
彫りの深い頬骨としっかりした
あごのラインも印象的で、
落ち着いた大人の雰囲気を醸し出していた。
年齢は40代半ばくらいだろう。
グレーのスーツ姿から、
最初は彼を才能ある
アーティストかもしれないと思った。
だから、無造作に流れる長めの前髪が、
アーティスティックな
印象を与えたのかもしれない。
彼はビールをゆっくりと楽しんだ後、
慎重な儀式のようにウィスキーを注文した。
「なるべく普通のスコッチをダブルで」
と言った。
バーテンダーは
彼の好みを理解しているらしく、
ホワイト・ラベルを用意し丁寧に氷を入れた。
そして男は何も言わずに、
分厚い本を開き読み始めた。
私はこの裏路地のバーの隅から、
静かに彼の行動を眺めていた。

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