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記憶を紡ぐ鳥



学芸大学駅前のジャズ喫茶「ブルーノート」は、
僕にとって第二のリビングのような場所だ。
マスターが淹れるコーヒーの香りと、
壁一面に並ぶレコードジャケット、
そしてスピーカーから流れる
マイルス・デイヴィスのトランペットの音色が、
僕を日常の喧騒から解き放ってくれる。

「いつもの、ブルーマウンテンでいいかい?」
カウンター越しにマスターが声をかけてくる。
彼は僕よりも少し年上で、
いつもダンディなスーツを着こなしている。
「ええ、お願いします。あと、今日はボルドーの赤も」
「お、今日は何かいいことでもあったのかい?」
マスターがニヤリと笑う。
「いや、別に。なんとなく」僕はグラスを受け取り、いつもの席に座る。
窓の外では、学生たちが楽しそうに談笑しながら通り過ぎていく。
見慣れた風景のはずなのに、最近どこか違和感を感じる。
まるで、この街の記憶が少しずつ薄れていくような、
そんな気がしていた。

僕は作家志望の38歳。10年前に会社を辞めて、
この街に引っ越してきた。
小説を書きながら、アルバイトで生計を立てている。
夢を追いかける日々は楽しいが、時々不安に襲われることもある。
特に最近は、自分の記憶が曖昧になっていくような感覚に悩まされていた。「おい、聞いたか?最近、奇妙なカササギの噂が流れてるらしいぜ」
隣のテーブルに座る常連客、カメラマンの田中さんが話しかけてきた。
「奇妙なカササギ?」
「なんでも、光る物を集めるんじゃなくて、人の記憶を盗むんだってさ」「まさか、都市伝説だろ?」
「最初は俺もそう思ったんだが、最近、妙なことが続いてるんだよ。昨日撮った写真の構図が思い出せないとか、昔の恋人の名前が出てこないとかさ」「俺もだ。この前、子供の頃に大好きだった絵本が何だったか思い出せなくてさ」他の常連客たちも口々に同じような体験を語り始めた。
僕は彼らの話を聞きながら、
自分の身に起きた奇妙な出来事を思い出していた。

先週、僕は駒沢公園でジョギングをしていた。
いつものコースを走っていたはずなのに、
見慣れたはずの風景が、どこか違って見えた。
まるで、公園の記憶が薄れていくような、そんな感覚だった。
そのとき、僕は一羽の黒と白のコントラストが鮮やかなカササギを目撃した。その鳥は、普通のカササギとは違っていた。羽根が青みがかった光沢を放ち、瞳は深い知性を湛えているようだった。カササギは僕をじっと見つめると、何かを落として飛び去った。僕はその落とし物を拾った。
それは一枚の古い写真だった。写真には、幼い頃の僕と祖母が笑顔で写っていた。僕は息を呑んだ。この写真のことは、完全に忘れていたのだ。
「もしかして、俺も記憶を盗まれたのか?」
僕は不安な気持ちで「ブルーノート」に戻り、マスターに相談してみた。「記憶を盗むカササギ?そんなバカな話があるかい」
マスターは笑い飛ばしたが、彼の表情にはどこか影があった。
「実は俺も最近、妙な夢を見るんだ。昔の恋人と過ごした日々が、まるで白黒映画のように色褪せていく夢だよ」
「もしかして、あのカササギの仕業なのかも…」
僕はつぶやいた。

それから数日後、僕は学芸大学の古本屋「学芸堂書店」を訪れた。
店主の鈴木さんは、僕にとってはもう一人の師匠のような存在だ。
「鈴木さん、最近、奇妙なことが続いてるんです。記憶が薄れていくような…」
僕は恐る恐る切り出した。
「ああ、君もか。実は私もなんだよ。この前、常連さんの顔を見ても名前が出てこなくてね。まるで、彼との思い出が薄れていくような気がして…」
鈴木さんは寂しそうな表情で答えた。
「もしかして、あのカササギのせいでしょうか?」
「カササギ?」
鈴木さんは怪訝な顔をした。
「最近、人の記憶を盗むカササギの噂があるんです」
「まさか。そんな非科学的な…」
鈴木さんは言葉を濁したが、彼の目にはどこか諦めのようなものが見えた。その夜、僕は「ブルーノート」で一人、グラスを傾けていた。窓の外では、雨が降り始めていた。
「マスター、あのカササギって、本当にいるんですかね?」
僕はマスターに尋ねた。
「さあね。でも、もしいるとしたら、一体何のために記憶を盗むんだろうね?」
マスターは遠い目をして答えた。
「もしかして、僕たちが忘れてしまった大切な記憶を、思い出させてくれるために?」
僕はポツリとつぶやいた。
その瞬間、窓の外を白い影が横切った。それは、カササギだった。
雨に濡れた羽根が、月明かりに照らされて青白く輝いている。
その姿は、まるで幽霊のようだった。
僕は思わず立ち上がり、カササギを追いかけた。雨の中を走りながら、
僕は子供の頃に見た夢を思い出した。
それは、祖母と二人で海辺を散歩する夢だった。
暖かい日差し、波の音、祖母の優しい笑顔。
「おばあちゃん!」
僕は叫んだ。すると、カササギは空高く舞い上がり、何かを落としていった。それは、一冊の古い日記帳だった。
僕は震える手でそれを開いた。
そこには、僕が忘れていた数々の記憶が綴られていた。
初恋の人との出会い、友人との冒険、家族との思い出。
そして、作家になる決意を固めた日のこと。

僕は涙を流しながら日記を読み進めた。
それは、僕がずっと忘れていた大切な記憶だった。
そして、僕は気づいた。カササギは記憶を盗んでいたのではない。
忘れられそうな大切な記憶を、一時的に預かっていたのだ。

次の日、僕は「ブルーノート」でマスターと
鈴木さんに昨日の出来事を話した。

「もしかして、あのカササギは記憶を盗むんじゃなくて、僕たちが忘れてしまった大切な記憶を、思い出させてくれるために現れたんじゃないでしょうか?」
僕は二人に問いかけた。

「そうかもしれないね」
マスターは静かに頷いた。

「だとしたら、あのカササギは、ただの鳥じゃない。僕たちの記憶の番人なのかもしれない」
鈴木さんは目を輝かせて言った。

「でも、なぜカササギがそんなことをするんだろう?」
僕は不思議に思った。

「それは、私たちが自分自身を見失わないようにするためかもしれないね」
マスターが言った。「記憶は、私たちのアイデンティティそのものだ。それを失えば、自分が誰なのかも分からなくなってしまう」

「そう、記憶は私たちの人生の宝物なんだ」
鈴木さんが付け加えた。
「でも、時々その大切さを忘れてしまう。だから、カササギが思い出させてくれるんじゃないかな」

僕は二人の言葉に深く頷いた。そして、自分の中に湧き上がる新しい物語のアイデアを感じた。

それから、僕たちは「記憶のカササギ」と呼ぶようになった。カササギは、街のあちこちに現れ、人々に忘れかけていた大切な記憶を思い出させてくれた。

ある日、田中さんは、昔付き合っていた恋人と偶然再会した。
彼女との思い出が蘇り、二人は再び愛を育むようになった。

鈴木さんは、常連客の名前を思い出し、彼らとの絆を深めていった。

そして、僕は、祖母の温かい愛を思い出し、長年書けずにいた小説を完成させた。それは、記憶と喪失、そして再生をテーマにした物語だった。

「記憶のカササギ」は、僕たちに大切なことを教えてくれた。
記憶は、失われるものではない。
ただ、一時的に見えなくなるだけだ。
そして、いつか必ず、思い出される時が来る。

しかし、ある日突然、カササギの姿が見えなくなった。
人々は不安に駆られた。
もう二度と大切な記憶を取り戻せないのではないか、と。
そのとき、僕は気づいた。カササギはもういない。
でも、僕たちの中に、カササギの役割を果たすものが育っていた。
それは、互いの記憶を大切にし、共有し合う心だった。
僕たちは、今日も「ブルーノート」でコーヒーを飲みながら、
思い出話に花を咲かせる。窓の外では、新しい季節の風が吹いている。
そして僕は、新しい小説を書き始めた。それは、「記憶のカササギ」と出会い、自分自身を取り戻した人々の物語。きっと、誰かの心に残る物語になるはずだ。カササギは姿を消したかもしれない。でも、僕たちの中で、記憶を大切にする心は生き続けている。それは、きっと、かけがえのない宝物になるだろう。

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