ゴーストワイヤートーキョーを語る
クリアした(ネタバレを多く含む)
ゴーストワイヤートーキョーをクリアした。今の私の心境的には、クリアしてしまった、と言った方が正しい。
面白いゲームをクリアしたときは決まってこうなる。最近だとレッドシーズプロファイル、記事にまとめたものだとFEやうみねこ。私の生活を彩り、いや、最早要となっていたと言っていい名作たちが過去のものになってしまう時、私は二度とクリアする前のような気持ちで明日を心待ちにすることができないのだと悟り、言い表すことのできない虚無感に襲われるのだ。ゲームをクリアするということは、自分のなかでひとつの人生が途切れてしまうようなものだと思っている。ああ楽しかった、じゃあ二周目と進むことができないのは、心はまだエンディングに取り残されているからなのだろう。私は様々な苦難を得て成長した彼らと今まで歩みを進めていたのだ。私が共にありたいのは地続きの彼らであるのに、エンディングを迎えれば道はぶつりと途切れて、ふと隣を見れば誰もいなくなっている。
来た道を遡って、何もかも忘れたまっさらな彼らと顔を合わせたところで、私にとってはよく似た別人でしかない。私が会いたいのは、途切れてしまった道の先を歩く彼らなのだ。自分のなかでそれを受け入れられるようになるまでには時間が必要だった。
それは本題ではないのでこの辺りにしておくとして、ともかく、クリアした時に虚無感に襲われるのはいつものことなのだが、今回はまた少し違う。虚無感のなかに、形容し難き高揚感とも不快感ともつかぬ熱い感情がグルグルと渦巻いているのだ。未だ熱は冷めそうにない。頭の中ではほとんどの時間、KKと暁人のやり取りが渦巻いている。二人の声が頭の中で響く。そして時折、ラストの情景が浮かび上がっては胸を締め付けられるような思いにさせられてしまう。
例えば仕事でもなんでも、意識が別のことに向く瞬間というのは確かにある。いやそうでなければならないのだ、人間なのだから。だが、最後のあの瞬間を思い出すたびに、私の心はまたゴーストワイヤートーキョーに呼び戻されてしまうのだ。私の心もあの渋谷に共に取り込まれてしまったのだろうか。
しかし、胸にぽっかりと穴が空いたこの感覚が、ゲームをクリアした喪失感なのか、KKを悼む気持ちであるのか、一人取り残された暁人への憐憫であるのか、KKと暁人が道を違えたことに対する悲しみなのか、はたまたエンディングの時に切なさの中に確かに感じた高揚感なのか、いくら考えても、いまだに自分にはよくわからなかった。いや、きっと全てなのだろう。今上げた、いやそれ以上の、数多の感情が私の中でぐるぐると混じり合い、この大きな高揚とも虚無ともつかぬ、落ち着かない気持ちを増幅させているのだ。
ともかく、その瞬間沸き起こる叫び出してしまいたくなるような衝動を抑え、私は電車で、職場で、家で町でなんとか普通の様子を保とうとする。今日は何かと空回りをしてしまう一日で、そういう時、私は決まって、街ゆくあらゆるものに己の破滅願望を投影しながら、情けなさと無力感を覆い隠すように自暴自棄なモノローグを流し、とぼとぼと帰路について、飯を食っていつの間にかそんな気持ちもすっかり忘れてしまうのだが、今日ばかりはそんな中でもちらちらとKKと暁人の姿を思い出していた。そして家に帰ってPS5と向き直った時、少し落ち着いていた自分の気持ちが再び昨日に戻っていくのを感じた。
このままでは自分の中の大きすぎる感情に潰されてしまいそうだ。持て余す熱を少しでも晴らすために、私は今、思いつくままにキーボードを叩いている。
知っていた事
数日前、ようやくPS5を手に入れた私は、とりあえずPS5で話題になり、また自分も気になっていたゲームであったゴーストワイヤートーキョーを購入した。その時の心境を思い浮かべると、確かに評判も良く、Twitterで多くのスクショが流れた(私は未プレイだったのもあり、そこまで詳細を知るわけではなかったが)名タイトルをプレイできる気持ちに気分が湧き立ってはいた。だが、ここまで頭がおかしくなりそうなほど強い情動に襲われるとは夢にも思っていなかった。
事前評価で知っていたのは、大まかなあらすじとして幽霊と戦うらしいこと、KKと伊月暁人の関係性が何やら良いらしいこととフェチズムを擽る手の描写ぐらいだろうか。気になっていたゲームであったし、PS5を買ったら真っ先にプレイしたいゲームとして名前が上がる(もっとも、そこまでPS5独占のゲームに関する知識が深くないのだが)ぐらいには関心があったので、一応情報はシャットアウトしていた。
あらすじ
まず大まかなあらすじ、と先に述べた通りシナリオについての評価について語る。正直なところ、思っていたよりも短いシナリオだった。かなり道中道草を食っていたり休憩の際は画面は放置していたり、道に迷うわ画面に酔うわでお世辞にもサクサクプレイしていたとは言えないにも関わらずクリア時間は30時間と少し。道草を食わなければもっと短時間でクリアできるだろう。
シナリオというのはただ長ったらしく語っていればよいという訳でもなく、逆に簡潔過ぎても味気ない。重要なのは質である。それに関しては、少し気になる部分がないわけでもないが、個人的にはかなり「質が良い」と思っている。
まず、シナリオのスケールからして、風呂敷を広げ過ぎても冗長になるだけではないかと思う。シナリオを広げる方法は幾らでもある。例えば暁人やKKの過去編を深堀するだとか、ピンチになる場面を増やすだとか、敵の妨害が起こるだとか。だが私の思いつく方法ではやはりどうにも、乱暴な言い方をすれば「ダレそう」な気がするのだ。それからKKと暁人の関係性を加味すると、むしろ「短いシナリオ」の方が、絆を深めていった2人の関係と短い時間のアンバランスさ、そしてラストの寂寥感、それらにより深みを出している。そう言ったら流石に贔屓目が過ぎるだろうか。
シナリオ自体はサクサクと進んでいくが、サブシナリオや掛け合い台詞は豊富だ。KKと暁人については語りたいことが存分にあるので詳しくは後述するとして、とにかく掛け合いの数が膨大。恐らく回収しきれていない会話も何種類かあると思うのだが、自分の観測している範囲でもすごく多い。シナリオの進行度で彼らの関係性が少しずつ変化していくのが分かり、スピーディーな展開であっても彼らの感情の流れや信頼関係の移り変わりは非常に分かりやすい。その点については素直に「巧い」と思わされた。
テーマという部分に関してもしっかりとしている。KKと出会うことによる暁人の成長、家族と向き合うこと。そのふたつが主なテーマなのではないかと私は思っている。
暁人は麻里に対して確かな愛情と同時に負い目を抱えていた。それは公衆電話で電話を掛けるたびに聞こえる麻里の幻聴やラストステージでの葛藤、そしてたまにフラッシュバックされる暁人の過去と思われる記憶によりよくわかる。「逃げてばかり」という言葉の強さにどんな過去があるのだと待ち構えていたが、暁人は妹と表で話すのが恥ずかしいという思春期的な感情を抱えながらも妹を含め家族を大事にするごく普通の少年だったが、不幸が続き間も悪かった。そして不幸に耐えられるほど強靭な精神を持っている訳でもなかったという印象を受けた。この「逃げてばかり」という言葉も、最後の妹の言葉を思うに、暁人が己を責め続けていた部分がかなり強いのではないかと思う。暁人はトラウマを抱えたごく普通の青年だったのだ。だが、それでも妹のために命を懸けた彼は立派な人間であると私は思う。
暁人は麻里のために命を懸けてマレビトと戦いながらも、何処かで己の負い目を償うための自己満足だと卑下していた。弟を犬扱いする兄のサブクエストでの「そんないいもんじゃないけど、この人たちよりはマシかな」というセリフはおそらくどちらも紛れもない本心であり、複雑な心境だったのだろうというのが窺い知れる。
彼はKKとの交流やマレビトとの戦い、そしてラストステージで自分の記憶と向き合ったことで過去から目を背けることを辞め、人間として一皮剥けた。彼はこの大事件の中で、すべてを失いながらもそれでも大人になったのだ。その成長は素直に素晴らしいと思うし、彼を応援したい・・したいのだが、やはり彼を見守ってきた者としてはあまりにも彼が可哀想だと思ってしまう。これに関しては、最後のKKとの会話も合わせて後述したい。
KKと妻子、暁人と麻里、般若と妻子。家族のために奔走した三人。三人には共通する部分がある。ラストバトルで家族のために努力しながらもその努力は認められないと嘆いたKK。妻子を蘇らせるために渋谷中を巻き込んで間違った暴走をした般若。二人とも家族を思う気持ちはあれど、それは「独りよがりである」と作中ではっきりと示されていた。一方、暁人の麻里への感情もまた、暁人は「独りよがりなものだ」と自嘲する。
そして血は繋がっていないが、絵梨香と凛子もまた「家族のように」仲のいい二人であると作中で描写されている。凛子の愛もまた、独りよがりなものだと指摘されている。絵梨香を巻き込みたくないと願った凛子の愛は、結果的に絵梨香と凛子の間に亀裂を生み彼女が命を落とすに至った(最後に絵梨香と凛子は和解し、凛子は絵梨香という心残りをなくし成仏する)。この物語に登場する主要な人物は、全員「独りよがりな愛情」を家族に注ぐ。それは褒められたものではないのかもしれないし、愛情を注がれた相手がどう受け取るかは当人次第である。善悪で測れるものではないのだ。だが、家族のために不器用に奔走する彼らの姿を見ると、心が熱くなるものがある。独りよがりに、不完全に、不器用にそれでも懸命に足掻く彼らの姿は美しいのだ。
KKと暁人
この流れで本題に入ってしまおうと思う。先程凛子と絵梨香を「血のつながらない家族のようだ」と言ったが、KKと暁人もまた、これに該当すると私は思う。旅は道連れといったような、相棒のような、叔父と甥のような、不思議な関係を彼らは築いていく。彼らもまた、「家族」に該当するのかもしれない。では彼らの間に、独りよがりな愛情というものはあるのか。
KKは口の悪く素直になれない男として書かれているが、実はかなり暁人を誉める。実は、という枕詞が不要なほどにはよく褒める。敵を倒せば「よくやった」と言い、クリティカルヒットすれば「うまい」と称賛の声を上げ、サブクエストやメインストーリーでも暁人の人間性を高く評価していることを隠しもせず言う。こういうキャラクターであると、ステレオタイプに素直じゃない賞賛をすることが多いので私は珍しいと感じたのだが、「家族」という枠組みで考えるとこのKKの姿もまた別のものに見えてくる。
「父と息子」だと、むしろ素直に息子を褒めるというケースは少ないのではないかと思う。そのステレオタイプな価値観はむしろKKによく当てはまりそうだ。実際のところKKは、褒める褒めない以前の問題であったように思われる。だが、KKは暁人と息子を重ねているという事はないだろう。もっと本質的な問題、KKの父性的な部分に訴えかけられていたのではないかと思う。それから、暁人に卑屈な側面があるというのも一端を担っているのかもしれない。そのある種のストレートさと、ストレート故に遠くも感じる距離感は、敢えて当てはめるとするならば「親戚の叔父と甥」のようであると思った。
KKは最初こそ暁人の肉体を自分の道具として利用しようとしたが、彼の人となりを知っていくうちに、家族を早いうちになくし、妹の為に尽力する彼の姿勢に対し好感を抱いていくようになる。その過程は非常にわかりやすい。そもそもとして、KKは「子供に弱い」という描写もあり、KKの心情を揺さぶるものが暁人にはあったのだろうというのが分かる。
一方で暁人はKKに最初は悪感情を持ちながらも、段々と信頼を築いていく。KKがいなければ(戦力的な問題もあるが)彼を必死に探し、シナリオが次に進むときにはとりあえず彼の意見を仰ぐ。段々と暁人が子供らしく見えてくるのもミソだ。暁人は、KKを「信頼できる大人」として見ていくようになっていると感じる。ストーリーを進めると、暁人は時折口調が子供っぽいものになる。これはKKに対する信頼感が、いい意味で暁人の甘えを引き出してくれたのではないだろうか。
だが、彼らはあくまで対等だ。KKは暁人を頼り、暁人はKKを頼る。そして頼られる。叔父と甥のような関係と称したが、実際彼らに上下はなく、どちらが依存しすぎることのない、非常に健全な信頼関係を築いているのだ。気安く軽快な会話も、彼らのフラットな関係性をよく表している。
話を「独りよがりな愛情」に戻そう。結論として彼らの間にそれはない。では、何故暁人とKKにはそれがないのか。
何故ならば、彼らは「対話」をするからだ。
対話ができる環境にもかかわらず対話をしなかった者。物理的にできない者。状況は様々だが、「独りよがりな愛情」を向けるものは対話を行おうとしない。般若男は常に街中で誰に語り掛けるでもなく喋り倒した後にブツリと音声を切っていくし、KKは家族とロクに顔も合わせなかった。暁人と麻里は引き離されたが、その前も暁人は麻里や自分の罪の意識から逃れ続けていた。凛子は絵梨香のためを思って多くを語ろうとはしなかった。そもそも「独りよがりな愛情」となるのは、相手の意志を確かめようとしないからそうなるのだ。それは暁人に向けられた、「直接妹の意志を尋ねたのか?」という言葉に現れている。そしてラストシーンで初めて妹の意志を聞くことができたとき、はじめて暁人は救われた。彼を救ったのは妹の言葉で、「対話」であったのだ。
凛子もまた、絵梨香の言葉によって救われた。サイドストーリーの3で、絵梨香は凛子に本音を語りかける。その言葉で、凛子は「良かった」と言葉を漏らすのだ。彼女を救ったのもまた対話だった。
そして般若男は、最後まで対話を行わなかった。彼が肉の塊と彼女たちを切り捨てたことで、最後まで彼は己の家族と本当の対話を行うことができなくなった。そして般若男は最後まで独りよがりに家族の意志を決めつけ、散っていったのである。あの世で彼は、家族の本当の言葉を聞けたのだろうか。
最後にKKだ。KKは、家族と会話をすることはかなわなかった。だからこそ、暁人に最後にそれを託したのだと思う。それを暁人が受け取ることで、KKと家族の「対話」は暁人を通して行われるのだ。それがどうなるのかは、私たちには分からない。だが、最後に写った幸せそうなKKとその家族の写真が、私たちに希望的な未来を予測させてくれる。
「対話」がキーになっていると言ったところでKKと暁人の話に戻る。彼らはとにかく喋る。掛け合いボイスの多さはこの作品の大きな魅力だ。そう、その掛け合いの多さこそ、「対話」という一つの鍵であり、彼らを対等たらしめたものだったのだ。そう思うと、最後のKKの消え方も「ニク」い。いつも通り、喋っている最中に彼はふっと消える。彼らは最後の瞬間まで対話を行っていたのだ。KKは暁人の意志を確かめ、暁人はKKの意志を尋ねた。それが彼らの間にある感情を独りよがりなものとしない鍵であったのだ。
そう、だがこれが私の心を強く締めつけているモノなのだ。
正直に言おう。
私はKKに生きていて欲しかった。二人の軽快な会話をもっと聞いていたかった。次回作で小慣れた動作でマレビト騒動で敵を一網打尽にしながらしゃべり倒す二人を見たかった。二人に一緒にいてもらいたかった。ただそれだけでよかった。確かに最後の終わり方はよかった。自分の中で言葉にしたことで更に魅力が増したとさえ思っている。だがそれとこれとは別だ。人とは簡単に割り切れない生き物なのだ。それが独りよがりだと知っていても暴走してしまうものなのだ。この物語でそれはよく分かっているだろう。私はそれでも二人に生きていて欲しかったのだ。
それは本当の意味で私と彼らが「対話」をしていないからなのかもしれない。プレイヤーであっても、彼らの間には踏み込むことができないという事なのかもしれない。現に暁人は前を向くことを選んだ。この先どうなるかは分からないが、きっと暁人は大丈夫だろうと私も信頼を置いている。だが私は駄目だ。一日経とうが辛いものはつらい。私はKKと暁人に一緒にいてもらいたかったのだ。それが叶わないなら、せめて暁人にもっと幸せになってもらいたかった。妹が生きていたらまだ救いになった。だが麻里も死んでしまった。暁人はどうすればいいのだ。でも暁人は前を向いている。前を向いていないのは全く関係のない私だけなのだ。
先程道がぶつりと切れて私だけが前を歩いていると言ったが、実際は逆なのかもしれない。エンドロールが流れるとき、私の目の前に大きな壁が立ちふさがって、私は前に進めなくなってしまう。それなのに、登場人物たちは私を置いて走り去っていく。後ろをさかのぼれば彼らはいる。ただ彼らは何も知らないまっさらな彼らで、また一緒に走ったとしてもまた私の前には壁が立ちふさがるのだ。私はその短い道の間をひたすらに往復するしかない。そうするしか彼らと共にある道はないのだ。置いていかれているのはいつだって私たちプレイヤー側なのだ。私たちは本当の意味で彼らと同じ道を歩んでいないのだから。
道がそれてしまったが、とにかく私は辛いのだ。喪失感に押しつぶされて気が狂ってしまいそうになる。おまけにKKは私と暁人を置いて去ってしまった。暁人も私を置いて前を向いている。
2人とも、置いていかないでくれ・・・・・・。誰か私を助けてほしい。この胸の苦しみを消すために一体私はどうしたらいいのだろうか。分かっている。時間だ。それしか私の心を癒す術はないのだ。それでも、傷が少しずつ薄くなっていくようなもので、傷は確かにそこに残り続けるのだ。私はKKと暁人という傷を身体に付けた状態で生きていくのだ。これから。
さいごに
なんだかんだ言ったが、最高の作品だった。まさしく傑作だ。出会えてよかったと思える。
それから指だ。手だ。言い忘れていた。手フェチにはたまらないという評判を聞いていたが、確かに良いと思わされる。いちいち手の形が癖になる。なんというか、ASMRに近い刺激を味わうことができた。個人的には公衆電話をタップするときの手の仕草とタップ音が同時に味わえるところが特に好きだ。
暫くこれを引きずるだろうしとりあえずトロコンを目指して少しずつ心に空いた穴を埋めようと思っている。
ところで私はホグワーツにも入りたいと思っている。トロコンの前にホグワーツに入学することになるかもしれない。悩むところだ。それからゼノブレイド3の続きもそろそろやりたいし、今無料のフリプも気になるし、ブルアカのシナリオもちょくちょく読み進めていたりして、プロセカも詰めればそろそろ26~27のマスターが解放できるかもしれなかったりで、まあとにかく色々やりたいことはあるのだ。
ゴーストワイヤートーキョーで負った傷はゴーストワイヤートーキョーでしか埋められないのだがトロコンするとなると先ほどの感情とじかに向き直らなければならないのだ。つまり、トロコンするまでには少し時間がかかると思う。だが暁人を見習って私もちゃんと向き直って見せると今は思っている。今は。
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