京都・街の湧水9

31伏見・「藤乃井」の水


 「藤乃井」は京都市伏見区土橋町の宇治川派流「濠(濠)川」右岸にある土木建設業「藤井組」3階建てビル敷地内の一角にあった。

藤井組3階建てビルの一角にある「藤乃井」の水くみ場

 同社ホームページなどによると、初代の藤井虎夫氏が1956(昭和31)年にこの地で創業した。藤井組は大型の公共事業を請け負う京都府内でも大手の建設業者に発展した。「藤乃井」について質問したところ、若手社員がご親切に社史などを調べてくれた。

「地域の人々と共に」との願いで掘られた「藤乃井」

 井戸は初代社長が「地域の人々とともに歩み、地域に根ざした愛される企業に」と願って掘った。道路沿い植え込みの中に井戸が完成したのは2008(平成20)年1月5日。ボーリングは地下85㍍まで進められ、良質できれいな水が出た地下36㍍地点から取水した。

水くみ場を住民に解放

 御香宮神社の御香水は地下80㍍から取水する。藤乃井とは取水地点の深さが異なり御香水とは違う水脈とされている。水量は資料の中に記載がなかったという。井戸掘削の趣旨からして初めから水くみ場は住民に解放する気持ちがあった。

水くみ場にある「藤乃井」のいわれ書き

 同じ日に約2㍍離れたビルの一角に水くみ場も完成した。水に特別な固有の名称はない。水は一年中出続け、水くみは制限無しで無料。年に一度、水質検査を受け、すべての項目で基準値以下。合格の検査結果書が張り出されている。

水量制限無しで無料

 利用時間は同社が営業している平日(月曜日から金曜日)の午前9時から午後6時まで。雨天時は不可。近くの伏見板橋小敷地内にある「白菊井の水」の水くみが年会費1500円と有料なだけに、無料をありがたがる近所の人たちが入れ代わり立ち代わり水をくみにくる。

水質検査ですべての項目が基準値以下の合格を示す検査結果書(水くみ場で)

 水くみ場は人目に付きにくく、うっかり見落としてしまうような場所にある。2㍑入りペットボトル2本を持って水くみに来た人は「炊飯用やお茶用に煮沸して利用している。もちろん、生水で飲んでもまろやかでおいしい」と話していた。

32伏見板橋小・白菊井の水


学校敷地内に白菊井がある伏見板橋小の正門
校門左側にある白菊井の入り口

1960年代半ばから枯渇

  京都市立伏見板橋小学校の校庭にある自然水を「白菊井の水」という。地域の古老によると、かつて板橋小学校の校庭には、1960(昭和35)年ごろまで湧水があったという。しかし、1965(昭和40)年ごろからか水が枯渇した。

伏見板橋小敷地内にある白菊井の水くみ場
白菊が生けられた「白菊井の水」の水くみ場

 同小の子供たちが井戸の復活を復活して住民たちとの交流を望んだ。1989(平成元)年、卒業するに6年生たちが記念事業として井戸を復活させた。住民たちが保存会を結成し、清掃したりして井戸を同小とともに管理している。

卒業記念で復活

 井戸は同小敷地内。校門左わきに井戸用通路がある。かなりの水量がある。水量の多さでは下鴨神社の境外摂社の1つ、賀茂波爾(かもはに)神社(旧名称・赤の宮神社、京都市左京区)の湧水と匹敵するかやや多い。京都の市街地にある井戸では水量は最多クラスだ。

水量の多さでは京都市街地の井戸の中ではトップクラス

 水をくめる時間帯は開校時間に限定される。くめる水量は1人20㍑までの制限付き。業務用に使うのではなく、あくまでも個人消費用という理由からだ。水をくむ人が多くいて、行列ができることも、くむ水量を限定して待つ人たちの順番を早くする配慮もある。

白菊井の水利用の規則
水利用の注意書き
水利用の会員制を知らせる告知


 

水くみは会員制

 水をくめるのは会員だけ。会員は年会費1500円と納め、会員証をもらい、水をくむ時は会員証を持参する。毎年の水質検査など維持管理費に経費が掛かるため、利用者から会費を徴収するようになった。1回水をくむたびに100円を納めるよりもほぼ毎日のことだから安上がりだ。

白菊井の水が流れ込む池

 水くみ場のわきに池があり、水がこの池に流れ込みようになっている。池の水はいつも澄んでいる。

白菊翁の伝説

 金札宮は伏見・久米地域の古社で、井戸水のいわれに登場する白菊の翁(おきな)=天太玉命(あめのふとだまのみこと)=を祀る。縁起などによると、750(天平勝宝2)年に大きな流れ星が降る異変があった。

 このころ、白菊を育てている翁(おきな)が「太玉命」と名乗って久米の里にいた。白菊をめでて生き、干ばつで稲が枯れるときには、「白菊の露を注ごう」と白菊を打ち振るった。するとその場所にたちまちに清水がわき出て、稲がよみがえった。

金札宮の社殿

「白菊の露」伝承

 時の孝謙天皇は流れ星を深く憂慮していた。しかし、この話を聴いて喜び、「金札白菊大明神」の直筆を里人に与えた。里人は社殿に飾ったというのが金札宮のいわれ。白菊の翁の太玉命の物語が、室町時代前期に生きた謡曲(能)役者兼作家、世阿弥作の謡曲「金札」に伝えられている。

樹齢300年とされる社殿前のクロガネモチの古木

世阿弥の謡曲にも

 金札宮の創建は白菊の翁の物語が誕生した750年ごろといわれ、かつての社殿と井戸が、現在の伏見板橋小のあたりにあったとされる。伏見城築城に際して北東の鬼門の方向に社殿が移されるなど幾多の変遷を経て現在に至っている。
 1467年から10年から京の都で続いた応仁の乱までは、御香宮神社に匹敵する殿舎が並ぶ規模の広さがあったという。1604(慶長9)年に伏見城の鬼門を守るとして喜運寺(伏見区鷹匠町)が建立されると、その鎮守社となり現在地に移された。

金札宮の白菊井の水。神社は飲用を薦めていないが、生水でも飲める

 現在の金札宮は同小正門から南に約250㍍ほど離れた場所にあり、伏見区役所庁舎の近く。金札宮の手水場の水も白菊水と呼ばれ、金札宮との縁の深さから、板橋白菊の井戸と名付けられた。

33梅宮大社のご神水


梅宮大社の井戸について、メールで何点か質問したところ社務所から丁寧な説明の返信があった。
説明によると、 「手水舎の井戸ではありませんが、神苑の池と防災貯水に用いていた井戸は30年ほど前に枯れた。元々、手水場の井戸ではなく、飲用ではなかった」という。

梅宮大社の手水場

地下10㍍程度からくみ上げ

 「手水舎及び飲用水は25年ほど前に新規に掘った。手水舎は元々、水道水を利用して45年ほど前から設置した。新規の井戸は正確な深さは不明だが、パイプ打ち込みで10m程度と聞いている」

地下水に水道水も混用する飲用可能な手水場の水

 「井戸水の検査は施工時のデータで、以後の検査は行っていない。そもそも、くみ上げた水をそのまま流しているわけではない。運用当初から飲用消毒薬(次亜塩素剤)の添加装置を設置して常時消毒している。さらに2008年、京都市水道局の指導を受けて、家屋部での下水道利用との兼ね合いから上水道も混用するようになった。このため、成分無調整な地下水とは言えない」

常に水があふれている手水場

 「井戸や水の持ち帰りについて聞きに来る参拝者が時々いるが、聞きに来られた場合は上記の説明を行っている。水をくみに来るひとにはあまり持ち帰らないように促している。池用の水はそもそも飲用でないので持ち帰りは許可していない」という。
 神社が桂川=旧名・葛野(かどの)川=の左岸にあった。桂川は豪雨の際には時折、洪水が起こり、社域は氾濫(はんらん)域にあったとされ、もともと湧水が豊富だったところ。現在も桂川の伏流水が社域に流れ込んでいるらしい。豊富な湧水の名残が神苑の池とされている。

随身門を入って右手にあるゴヨウマツの古木

 今ではネコの社として有名だが、古社らしくゴヨウマツの古木や、古代神話に登場するアメノウズメとサルタヒコの磐座(いわくら)などがある。 
 梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都市右京区梅津フケノ川町にある。平安時代の927(延長5)年に成立した延喜式神名帳に明神大社として梅宮社の記載がある延喜式内社。現在は神社本庁に属さない単立神社という。

檀林皇后もかかわり

  社伝などによると、一般的には橘氏の氏神として知られるが藤原氏も尊崇した。奈良時代、藤原不比等の後妻となった縣犬養三千代(橘三千代)によって旧山城国相楽郡井手庄(現在の京都府綴喜郡井出町)に祀られたのが創祀とされる。
  三千代の子で聖武天皇の世に左大臣を務めた橘諸兄(もろえ)によって、故地の旧井出庄に井出寺を建立した際に氏神として創祀され、平安時代前期に橘嘉智子(嵯峨天皇の正室、檀林皇后)によって現在地に遷座されたといわれる。嘉智子は、嵯峨天皇の皇子、仁明天皇を出産し、橘氏の中興に貢献した。

酒造の神を祀るだけに随身門にも寄贈の酒樽が並ぶ

 三千代は元明天皇から「橘」姓を賜り、橘氏の祖となった。757年から765年の天平宝字時代に三千代の子の光明皇后(聖武天皇の正室)と不比等の次男、藤原房前(ふささき)の女房で、三千代の子女の牟漏女王によって奈良に移された。その後、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代初めに橘嘉智子(檀林皇后)によって梅宮社が現在地である葛野(かどの)川(現在の桂川)のほとりに移されたという。歴史のある神社だけに転変が多かった。
 嘉智子は諸兄の直系子孫である橘清友の娘。子宝に恵まれなかった嘉智子が梅宮神に祈願して皇子を授かったという伝承から現在も子授け・安産の神として信仰されている。

祭神は酒造神

 また祭神は酒解神(さかとけのかみ)=大山祇神(おおやまずみのかみ)との説があるほか、酒解子神(さかとけこのかみ)= 木花咲耶媛(このはなさくやひめ)とされる説もある。酒解神を祀ることから酒造の神としても信仰され、酒にまつわる多くの神事が行われている。

 平安時代後期には松尾社など4社とともに山城国の5社に数えられた。橘氏の衰退に伴い社勢も衰え、応仁の乱の最中の1474(文明6)年の戦禍で社殿が焼失した。

徳川幕府第5代将軍綱吉の命令で建立されたという社殿

 主要な社殿は、その後1698(元禄11)年)の火災でまたも焼失。江戸時代に徳川第5代将軍綱吉の命で1700(元禄13)年に本殿や拝殿、楼門など5棟が再建された。しかし、また後の台風で拝殿と随身門が倒壊。拝殿は1828(文政11)年に、随身門は1830(文政13)年に再建された。
 また本殿の東側に「またげ石」と呼ばれる2個の丸石がある。嘉智子がこれをまたいで子ども授かったという伝承から、これをまたげば子が授かるとしていまでも信仰されている。
 本殿の西側には「影向石(ようごうせき)」と呼ばれる3個の石がある。これらは熊野本宮大社、熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智大社の熊野3社がある熊野から飛来した八咫烏(やたがらす)3羽が石と化したと伝えられている。古社だけにさまざまな伝説、伝承がある。

梅の開花期、多くの人でにぎわ神苑

 京都では菅原道真を祀る北野天満宮、伏見稲荷がダントツの人気を誇る。八坂神社や下鴨神社、上賀茂神社など人気の神社がいくつもあるせいか、また御所から西に離れて桂川寄りのせいか、はたまた道真が九州・太宰府に配置換えされて憤死した時の治世が嵯峨天皇、檀林皇后だったので、檀林皇后とかかわりがある梅宮大社は、道真びいきの京都人の人情からか逆境に置かれて人気薄なのが損だ。(つづく)

 



 

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