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イダ・プレスティ(1924 -1967) の生涯、幼少期とスパルタ教育 

10歳前後から天才少女と注目され後にヨーロッパのみならず欧米諸国に多大な影響を与えた伝説のギタリスト、イダ・プレスティの42年間の壮絶な人生、
ベルベン社出版の Ida Presti, sa vie son art (イダプレスティの人生と芸術)から、そして私が直接彼女と親しかった方々から聞いた証言などを中心に個人的な私の考えも交えながら紹介したいと思います。


まずはプレスティの幼少期についてです。
と言っても彼女は「幼少期など私にはなかった」と発言していたそうで、

彼女の父親はどうしても彼女をギタリストにしたいがあまり、学校へは行かせず部屋に楽譜とギターと共に彼女を閉じ込めて練習ばかりをさせることが日常でした。
ただ、父親は隣の部屋で聞いているだけだったのでプレスティは渡された楽譜をすぐに暗譜してその曲を弾きながら同時に好きな漫画を置いて読んでいたそうです。

(暗譜をする能力はもちろんですが定期的に音が止まるとバレるからおそらく左手だけで音を鳴らしながら右手で漫画をめくっていたのかも知れません、彼女の驚異的な左手のスラーの滑らかさはここから始まっていたりするのでしょうか…)

父親の教育は厳しく、「もし今日練習しないならその大事にしている人形を壊すぞ」と脅したり、ときには本当にハンマーを持ってきて目の前で壊すこともあったり、
彼女が一人おままごとをしていた最中に手をナイフで切った時も父親は演奏会を中止することはなく左から血が出ながらでも演奏をさせた、などのエピソードもあります。

ただ、それでもイダ・プレスティはこの時期のことを幸せだったと話していて、
当時は子供ながらも音楽の深さを理解して日々の鍛錬が形になっていくのをゲームのように楽しんでいたそうです。父親も少しながらも遊ぶ時間は与えていたそうで休日は一緒にレコードを聞いたりコンサートに行ったりもしたそうです。
ってこれもがっつり教育じゃないですか、、という見方もできるのですが。

私は小さい頃から音楽はしていましたが親に練習しろなどは一切言われたことはありませんでしたし、もしそう言われて育っていたらおそらくプレスティのように今音楽を楽しく続けられているような性格ではなかったと思います。
そしてやはり彼女にはどれだけ無理難題を課せられてもこなすだけの圧倒的な才能があったのだと思います。若い時の演奏もやはり努力と時間、厳しさだけでは到底辿り着けない領域に達しているとしか思えません、その演奏の一部がこちら(当時14歳の演奏)

初めてこの演奏を聴いたのは随分前ですが聞けば聞くほど未だに驚くことの連続です。一体このテクニックや歌い方が、ギターが弾けない親にしか殆ど習ったことがない少女からどうやったら生まれたのでしょうか。ほぼ何もないところから突然宇宙が出来上がったのと同じくらい不思議。

スパルタ教育は当時も今も珍しい話ではないと思うのですが
話が出てくるのは当然ながら成功したから、というのが殆どです。
個人的には大反対ですしせっかくの才能が親の教育によってなくなりかける姿も何度も見てきました、ただそういった話はなかなか表には出ないですよね。

私自身がこの親子の関係を知っている訳でもありませんし人形事件以外には実際にどのような会話がされていたのかすら知り得ないのですが

ただこんなにも厳しかった幼少期があったにも関わらずプレスティ本人が後にレッスンするときは一度も生徒に怒ったところを見たことがないと聞いたことがあります。

完成された彼女の演奏や作曲の音楽性の中にイダ・プレスティの遊び心のようなものをいつも感じてしまうのですが、

それはもしかすると過ごせなかった幼少期の頃への憧れの気持ちを常に持ち続けている、そんな人だったのかもしれません。
実際に普段の服装なども少女の様な格好をすることが多かったそうです。
ラジオの録音で話しているのを聞いたことがあるのですが声はものすごくかんだかく、話し方も何だかとても無邪気な様にも聞こえました。

子供の様なきれいな心から生まれる素晴らしい音楽性、
とあっさり言ってしまいたいところなのですが僕がイダプレスティに持つ憧れや興味というのは実はそこだけではなくもっと何か怪しいところなのです。その話は後々、、


1935年4月28日、パリのショパンホールにてリサイタルを行い、プログラムはバッハやアルベニス、トゥリーナ、ポンセのなどの作品が取り上げられ、そこには著名な評論家や音楽家が訪れ絶賛されたそうです。
この時から世界的に有名なギタリストとなっていくことになります。

続く

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