2023/7/22

日記を書くと実感するのは、ふだん自分なりに色々なことを考えているつもりでも、それはかなり茫漠とした、せいぜい断片的なキーワードの集まり未満のものでしかないということで、人と話すときにはリアルタイムで補足や補強をしながら何となく言わんとするところを伝えられても、文章に起こすとなるとそれなりに「成形」しなければいけず、要するに面倒くさい。

自分が書いた文章に推敲めいたことをついしてしまう癖が抜けないのは、いかにも物書きらしい端正な文章に憧れがあるという以上に、自分が思っていることをそのまま出力したら訳がわからなさすぎるということなのかもしれない。生きた思考の過程をそのまま掴み書き残すことは、もはや原理的にできないのではとすら思う。自分の場合は特に。

Aというトピックについて少し考え、何かを思いついても、それを頭の中のダッシュボードにがさっと放り込んで別のBというトピックのことを考え始め以下略、というふうな頭の働きをしていることも多分に影響がある。ひとつのトピックについて腰を据えてじっくり考えるためには、少なくとも何かのトリガーが必要だ。例えばFilmarksのように作品単位で文章を投稿するプラットフォームは、自分が考えてものを書く方向性をがちっと固定してくれるので、まとまった内容になりやすい。

自分は机に向かって勉強するということがかなり苦手だ。ひとつのことを長時間じっと続けることができない。音楽とかラジオを聴きながらならまだしもだが、そういう風にできる単純作業的でない勉強をするのは本当に苦痛だ。勉強だけを継続的にできる人が羨ましい。

もう結構このトピックで書き続けるのも飽きてきているのだ。

勉強に限らず、一つのことをしばらくやり続けなければならないというのは苦手だ。チャネルが一個しかない状態全般がきつい。だから自分にとって、入力される情報を手軽に一つ足すことができるイヤホンは手離すことができない。どんなに静かで気持ちのいいところを散歩していても、散歩するという行為それ自体の退屈さに耐えかねて、何か聴きたくなる。散歩は好きだが、それは音楽やラジオを聴きながらの散歩が好きなのであって、散歩だけをしろと言われたら話は別だ。逆に、自分が音楽やラジオを聴くのが好きなのは、それが他のことをやりながらでも楽しめる娯楽だからなのかもしれない。

それ自体に100%集中して向き合う必要があるという意味で、本を読むのもほんとうは苦手な部類に入るのかもしれない。たまに音楽を聴きながらでもちゃんと小説を読めるとか、並行して何冊も読めるとか、そういうことを言う人がいるが、自分はそこまで極端に器用ではないし、心理的にもあまりやりたくない。映画はどうなのかというと、あれは複数のチャネルを強制的に情報で埋め尽くしてくれるから、こちらとしてはむしろ楽だ。

それでも、なんとなく「本は読まなきゃ」という思い込みがうっすらとあるのは、自分の中の古臭い教条主義なのだろうと思う。本は面白いから読むんですけどね。