2023/6/21 の下書き(未推敲)

俺はアルゴリズムの奴隷なんかではない。

インターネットに接続して、何かを調べたり、言及したり、「いいね」をした瞬間に、俺は俺という人間からデータの集合体に置き換えられ、勝手にタグ付けされ、次から次へとレコメンドを受けることになる。俺の情報は俺だけのものだ。誰にも渡したくない。

ツイッターに金を払うことで広告とアルゴリズムに基づくクソみたいな「おすすめ」を消せるのならば、喜んで課金しよう。いや、もっと手っ取り早い方法があった。今のインターネットに、ないしはSNSに金を落とすくらいなら、何も投稿せず、何もフォローせず、何もいいねしない、現れるレコメンド全てに「興味がない」を押していくだけのアカウントを作る。ツイートを観たい人がいたら非公開リストで眺める。アルゴリズムに、お前のやっていることに意味なんかない、お前に捕捉されなくてもこのサービスを楽しむことはできるんだ、と突きつけたい。現実的にそんなことをしても何も変わらないかもしれないが、知ったことではない。俺はこいつが嫌いだから。

自分が10代のころにSNSがなくてよかった。当時のインターネットは、それはそれで碌でもない側面が多々あったとはいえ、まだマシだったように思えてならない。それは世界に開かれているようでいて実際には小さな島の集合であって、われわれはその中で細々と交流し、喧嘩し、あるいはROMっていた。今のSNSは、世界(のように見えるもの)と自分をノータイムで接続してしまう。普通に考えて、誰がそんなこと望むというのだろう。

『私ときどきレッサーパンダ』という映画を観て感動したのは、SNSの存在しない青春のまばゆいばかりの輝きだった。主人公たちはイケてない変わり者グループだが、互いを無二の親友として信頼し合い、他の誰にも侵すことのできない世界に生きている。親はうざいが、裏を返せば親さえ出し抜けば自由だ。自分は精神的に自由なんだと初めて自覚できるようになるのが思春期というものだろう。そんなものはしょせん箱庭の中の話だと笑う者はいなかった。というか、よしんば誰かに笑われていたとしても気づかなかった。

今のインターネット/SNSは、使い手の可能性ではなく限界をひたすら見せつける最悪の装置だ。高度化されたアルゴリズムはもはや郵便的な出会いを用意せず、個人どうしの関係は位置情報やログイン履歴によって常に人間関係を束縛し、何かの思いを綴ったところで知らない誰かが水を差してくる。

(未完)