【読書感想文】母性/湊かなえ

小説を読んでいると、たまに、ほんの少しの確率で、「しっくりくる文」に出会う。良い表現の文や美しい表現に溢れる小説たちの中でも、特に限られた存在なのだ。読んだ時に妙に自分の中に落とし込むのが容易い文とでも言おうか。感覚を言葉で表すのは容易ではないが、地元に帰ってきたような安心感、時にはいつも行く店が潰れていた時のような寂しさが、一文から読み取ることができるのである。やはり「しっくりくる」でいいのかもしれない。そんな文たちは自分の持っている感覚にリンクして、自分の見ている世界に言葉を、色をつけてくれる。人々が小説を読むと感性が鋭くなるというのはこういった文に出会うことができるからだと私は思っている。さて、そんな文たちとの運命の出会いがある中で、私が小説を読んでいてよかったと思える文に出会った。それは「しっくりくる文」の最上級、言うなれば「魂に刻まれる文」であり、自分の過去と、現在、そして未来の本質を、気付きたくないことを、私に気づかせる。湊かなえの「母性」新潮文庫の26刷、150頁「娘の回想」5行目から151頁1行目。「食事はきちんと与えられていた。毎晩、風呂に入り、柔らかく暖かい布団で寝ていた。給食費を期日に出せなかったこともない。合唱発表会の日には、フリルのついた襟の大きなブラウスを着ていき、運動会には、さほど活躍するわけでもないのに、新しいシューズを履いていった。」の後の一文。「これが親の愛だというのなら、私は満たされている方に分類される。」ぐさりと鉛が刺さった感じがした。親はいつでも子供を守るものだというのは私たち人間が存在する前からの自然の摂理であり、人間社会でもほとんどの親は同意するだろう。しかし、守ることと愛することは必ずしも一致するとは言い難い。自然界では親が子を守るのは親自身の遺伝子を後世に残すための手段でしかない。愛が存在する証明がされていない世界では本能だ、と認識されることとなる。人間界でも同じだ。人は一時の快楽と本能のために子供を作る。 GNI(国内総所得)の高い日本よりもアフリカ諸国のようなGNIの低い国の方が兄弟の数が多い傾向があるのも、昭和の頃よりも子供の数が減っているのも、我々が経済でなく本能で子孫を残す動物だからだ。そんな私たちが愛は存在すると思い込んで生活している。まるでそう思わなければ誰かを大切に思う気持ちが嘘のように思えてくるから。俺が、自分は子育てしたくない、いやできるはずがないと思っている最大の理由は、誰かを大切にできないからではなく、遺伝子を残す、という本能的な理由で彼女の近くにいたくないからだ。子供は割と好きな方だ。末っ子だから世話をされる方が多かったが、そのぶん親や姉が世話を焼く姿に憧れることも多かった。そのため東京に住んでいた小学校時代は近所の自分より幼い子たちと遊んだりもした。けれども自分の遺伝子が、血が、後世に残ることはあってはならないと思っている。自分の内面は自分の父親に似ているところがあると気づいているからだ。父親は、祖父が企業に失敗したため金銭的な理由で大学にこそいけなかったが昔から教師に代わりを頼まれるほど学業優秀だった。その優秀さは社会に出てからも大きく彼の背中を押し、上司からの評価が高いといくべんも聞いた記憶がある。そんな彼はプライドが高く、自分がいつどんな状況でも正しいと信じて疑わない。常に他人を見下しているような態度なのだ。(俺と彼が似ていると思うところの一つ)社会人としての常識は抑えているのがより厄介で、腹の中では見下している相手にも愛想よく接することができるそうだ。(似ているところ)しかし扶養内の相手には愛想よくする必要がないと思っていたのか、小学生だった俺や姉、母に対しては常に高圧的で傲慢で、我がもののように扱う人だった。毎日ではなかったが、いうことを聞かなければ躾と称した拳が飛んでくることもしばしばあった。何かをお願いすれば「俺の金だから」と断られ、必要な理由を話せば「屁理屈だ」と言われ、理不尽さを論理的に指摘すると「子供にはわからない」と言われる。そこで食い下がれば殴られる。親が必ずしも正しいわけではないことに気付き始めた小学校高学年からは父親は本格的に俺を嫌った。姉は言い争いが嫌でいつも父親を正しいと思い込んでいたし、母だけは俺を守ってくれたが父ほど頭はきれてなかったため、俺と父親の溝は深刻化して行って、父親が死ねば保険金が入ってくるのをパソコンで知ってからは、本気で死ねばいいと何度も願った。父親は頭がよかった。高校大学に進学する金は渋々出してくれたが、それもいつか返せと言われているし、奨学金を借りているわけではないから(父親に金を借りるくらいなら闇金でも借りたかったが、父の収入が奨学金の審査で落ちたために嫌な顔をされながら借りを作らなければならなかった)父親に出してもらっていると説明するしか無かった。一番嫌だったのは、父親が学費を払っているだけで「いいお父さん」と世間に認識されることだ。金を出せば、収入があればいい父親になれるのか。確かに生活に困ることはなかったため感謝はしているが、仕事以外に何をしてくれた。現に台湾にいる父親から日本にいる母親に振り込まれるのは生活費のギリギリで、仕送りはパートの母が出していることを知っていて、出してもらっている俺が言及しないのを知っていて、何もしない。一人暮らしの俺が東京の家賃3万円のアパートに住めばいいだろうと言われた時に、完全に父親が死んだ方が幸せになれる家族なんだとわかった。食卓で楽しく話していれば鼻で笑われ、ようやく単身赴任したと思えばわざわざラインでくだらない夢だと言われる。生きているだけでありがたい、大人になったらありがたみがわかる、学費を出してもらってんだから文句言うな。何回言われたかわからないその台詞は、親に愛されていた人の口から出るんだから余計に腹が立つ。成人した後初めてのゴールデンウィーク、何年かぶりに父親と会って一緒にタバコを吸った。愛想よくしていたら1人感慨に浸り始めていったセリフがこれだ。「昔はお前らのことを『いい大人』にしようと管理しようとしてた。今はお前も大人だから他人として見てる。」悪びれもなく言った言葉に、「黙れ保険金」といいそうになった。20年間生きてきて、家族である父親から、お前をこれまでの人生で1人の対等な人間だと思わず、ペットのように躾の対象だと思ってましたと懐かしそうな顔で話されたことがある人間がいるのか。お前が俺を人間として扱わなかったから、昔から俺はなぜ自分が生きていないといけないのかと問い続けて、何度も死にたいと思うような人間になったんじゃないか、と。周りに恵まれている今はそんなことを思わないが、小学校の担任にメンタルクリニックを勧められる原因は確かに父親にもあるはずである。ここまで感情に任せて文字を書いたが、俺も何度も父親を理解しようとしたことはある。俺は愛されていると思おうとしたこともある。しかし、彼は子供を社会に出す義務感で金を出しているのであって、子供に、家族に今を幸せに生きてほしいとなんて気持ちは一欠片も持ち合わせていないのだ。そして父親自身はそれを愛情だと思っている。自分を疑わないからだ。俺の人生と、「これが親の愛だというのなら、私は満たされている方に分類される。」の一文が、俺の心臓を掴んだ。貧乏でも仲良い親子がよかった。一度でいいからこんな人になりたいと思わせて欲しかった。でも俺は、俺の父親しか父を知らない。だから、他人を愛するのも、きっと自分の子供を愛することも向いてない。この小説のせいで、というかここしばらくの心の弱い自分のせいで、嫌なことを思い出した。また長い夜が始まる。

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