「浅さ」と言う余地

創作物が飽和する昨今、泡沫の様にそれに対する「感想」も浮かんでは消えて行く。

その中で、恐らく誰でも耳にするであろう「浅い」と言う感想。

一体何が浅いのか?今日はその知られざる真相に迫りたいと思う。

浅いとは、余地である。

人間には、共感性と言うものが備わっている。

なればこそ出る感想が「浅い」である。

何らかの事物に対して共感した上で、その深度を測るのが人間だからだ。

人は皆井の中の蛙である。そして、創作物とは他の誰かの井戸である。

自らの井戸から出て他人のそれに触れる時、自分の井戸と比べてその水深が深いのか浅いのかを人は語るのだ。

であれば既に相手の術中ではなかろうか?

相手は自分と同じ蛙ちゃんがやって来ると知っていて、自分の井戸をせっせと模様替えしたのだ。

それこそが、共感性の罠である。

恐らく相手が井戸ではなく深い海に、硫酸の溜まった落とし穴(©︎遊戯王)に招いたならば、「浅い」と言う感想を抱くこともなく溺れて、最期に出る言葉は「意味が分からない」と言う台詞だろう。

そう、最初からその井戸を用意した人間は「浅さ」と言う呼吸をする余地を与えているのである。

共感性を持ってやって来る他の蛙が溺死しない様に、ある程度の「浅さと言う余地」を持って迎え入れて居るのである。

であればこれはもう「浅い」と言った方の負けではなかろうか?

足の届く用意されたちびっこ用プールで遊んで「もっと深い所で泳ぎて〜www」などと曰って居る様なものなのだ。

浅い↔︎深い

そして、浅いと言うのであれば当然深い部分を知って居るから、その相対的な感想が出るのであると考えられる。

そう言った感想を目にする度私が思うのは「だったらその深さを見せたら良いのになぁ」と言う思いだ。

それは単純にもったいないと言う思いから出る感想なのだ。

誰かの井戸をして浅いと言うのであれば、深い自分の井戸を見せてあげれば良い。

そうすることできっともっと創造は豊かになると思う。

ただ、その深い井戸の中で他の蛙が溺死しないか、共感を得られるか、と言うのはまた別の問題ではあるが。

最後に

私には正直浅いとか深いとかはよく分からない。自分の井戸と他人のそれを見比べても意味が無い様に思えるからだ。

ただ、誰かの井戸を見て「浅い」と思う人が居るのであれば、是非とも深い貴方のそれを誰かに見せてあげては如何だろうか?

少なくとも、私はそれを見たいと願って居る。


あなたのご好意が、私の餌代になります。