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ゴールデンウィークの喧騒と世界の喧騒と

滝道でのスケッチの帰り、SNSで流れてきた情報で、米大で行われた反ジェノサイドを訴る学生デモが警察公権力によって武力制圧されたことを知った。
ゴールデンウィークの初日。滝道は通常より人が多く出店も増えて賑やかだったが、新緑に心と身体を伸ばして筆をとれば、自然の音は存外うるさくて人の声は溶けて消えた。時折スケッチをする後ろに回り込んで見る人もいるが、揺れる木が気配まで溶かしてしまう。
頭の中から色んな音や考え、情報が消えていくのと同時に画面と意識が滑らかに繋がり出すのを感じる。埋没してしまった幹を掴み直す一手を引いたところで、はっと我にかえった。画面を手前と奥に分けるオレンジのラインに、コントラストだ。と思った。
これくらい離れているというリアリティは同時に手前と奥を掴む。
溶けて消えたと思った声が消えたわけではなかったことを思い出す。
聞こえなくなっていただけだ。
どちらもあるんだ。
どうして忘れていられたんだろう。
街に降りれば、耳に残る水と木々の音が声を消そうとして失敗した。多分それは逃げだからだ。だけど右手に担いだキャンバスは、そこに引かれたオレンジのラインは、スマホから流れ込みやがて身体中で響くたくさんの怒声の間に分け入り私の輪郭を守ってくれた。

両方を掴む線を引いて生きていかなければいけないということだと自転車に乗って晴れた道を帰りながら考えた。
日和るな、情け無い。その情けなさが自分を無力さの檻に閉じ込めていくのだから。

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