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正論と曲論

日本を出てからなんかより理屈っぽくなったと感じる

元から理不尽なことは大嫌いで、意味が分からんことやらされたり、意味わからんことで怒られたり、理不尽を振りかざしたりする人間が嫌いだった。
それでも昔はダルい、ウザい、嫌いみたいな単純な感情しか抱いてなかった。けど最近は何にでも理由、目的、それから得られうる結果を求めてしまう。
おかげで物事をより広く俯瞰で見れるようになったと実感してはいる。
昔は今までnoteに投稿してきたようなことを自分から書こうなんて思わなかったし、そもそも書く内容を思いつかなかったから。

そんな流れもあり、柔軟に物事を見るところは変えなかったけど、こっちに来てからある程度の自分の芯というか自分なりに導き出した正しいと思えるブレない部分が形成されていった。
と同時に客観的に自分の芯と比べることで見えてきた自分からしたらおかしな人達を友人達との会話でネタにし始めた。
今になってその時の自分を客観的に見ると何であの時は自分で自分を客観的に見れなかったんだろとか思うけど、当時は基本全部ネタだし、別に間違ったこと言ってないし、毒のある感じが面白いと言ってもらえてたしいいやと思っていた。

そんなことをしていた時期の自分は他人の問題や課題を指摘することって簡単だけどそれを改善する若しくは改善してもらうって難しいよな。感情的に言ったらそりゃ変わらんし、理詰めで説明したってだいたい変わらんしって思っていた。

そんな時に"正しさでは人間はついてこない"って言葉に出会った。
なるほど、確かに正しいことやら正論やらを言われたところで人間腹立つしムカつくし積極的に変えてやろう、解決してやろうって方向にはなかなか向かない。
あの時感じていた違和感というかモヤモヤはこの言葉でスっと解消された気がした。
直接相手に正論を押し付けていた訳ではないけど、それ以来なるべく自分が正しいと感じることがあってもそれを口に出すことは減らした。
(未だに日常で毒吐くことあるけどそれはご愛嬌&全部ネタなんで間に受けないで。笑)

曲論、これは正論の対義語で正しくないことをさも正しいかのように相手に議論をねじ曲げて押し付けること、いわゆる理不尽とほぼ同義なのかなと。
これは明らかに厄介でタチが悪く見える。
反対に正論は正しいことを言っている。かもしれないけど、相手に自分の意見を押し付けている点では曲論と大差ない。てか、そこに悪気は絶対ないし寧ろ良かれと思って正論たたきつける人が多いと思うから曲論よりタチが悪い気がする。

まあ何が言いたいかというと曲論であろうが正論であろうが相手に振りかざしてしまった時点でそれは自分のエゴであって相手のためにはならない可能性があるということ。
どうしようもないようなやつが身近にいたとしても結局他人は他人で自分は自分で、他人に期待した分だけ疲れるし、他人には期待しない方がいいってのは変わらないと思う。そんな考え方が出来れば正論を振りかざす理由も数も自ずと減ってくるのかなと。
どうしても何とかしたい人がいるのであれば正論を言ったり、課題を指摘するだけではなくて何か他の言い方なりアプローチを見つけるのが得策だと思う。


当たり前といえば当たり前のことだし、なんか久々にnote書いたら文章下手くそになった?って感じだけど今回はまあこの辺で。
いつもの如く読んでくれた人はありがとうございましたー。
次回辺りからそろそろ旅行のこととか書きたいね。

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