見守るとは

わたしの面倒をずっとみてくれていたひとの、ちょっと変わったひとを恋人にしてしまうという話を聞いていた。
彼女は、ちょっとした恋人の特徴に対して、だからちょうどいいのかも、と言った。パートナーは、いかに完璧かではなく相性がすべてだと思っているので、自分の条件を整理して向き合えているのは聡明だと思った。

けれど彼女に起こった一抹の不安な出来事が今後悪い方向に向かったら、と想像すれば、悲しくて仕方がなかった。わたしがわがままな変わった子だったから、隣にいてくれた彼女は、こう優しすぎる人にならざるを得なかったのだろうかと、想像に責任を感じてしまった。

優しいひとが、利用される世の中であって欲しくない。絶対に。少なくともわたしの周りの優しいひとは、優しい分だけ幸せが返ってくるようであるようにわたしは接したい。
ちょっとずるくても、あなたは幸せになってよ、と思ってしまうくらいに大切な相手が、わたしにはちゃんと顔が浮かぶから。そう伝えてもそれを選ばないだろうくらいのひとたちが。

というわけで、不安は改善に繋げるためにあるので、これからどうしようか。と考えていた。

昔恋人の親族から、殺すぞと言われたことがあった。それを聞いた時は、それだけ大切に守ってきたんだからそう思うことくらい当たり前だと思っていた。わたしもパートナーに健やかな環境であって欲しいと思っていた。でも、やっぱり時間が経つにつれ、バックグラウンドも知らず、事の経緯も一方からの話しか知らずに暴力的な言葉を選ぶひとを自分の親族にはしたいとは思えなくなっていったし、境遇のこともあって、間違いなくわたしはちゃんと傷ついていた。パートナーのことは家族が守ってくれても、わたしになにかがあったとき、わたしは誰に守られるんだろうか?と思った。その時の出来事をおもいだしていた。

わたしも今回、わたしの面倒をみてくれていたひとの恋人に、ちゃんと幸せにしないと許しませんよ、と伝えようと考えがよぎってしまっていた。でも、そうじゃないのかもしれない。

2人の関係を選ぶのはあくまでふたりでしかない。口を挟んで、割りいって、を支えるなんて綺麗に言ったって、そんなのは操作しているのとおなじなのではないか。自分の道を自分で決め、その選択を信頼する。それが見守るということなのではないか。じぶんのことは、自分で決められるようになることが、将来見据えても自分がいなくなっても残る、その人自身のためになること。
だからアドバイスはしても、彼らが恋人同士を選び続けるのであれば、ふたりまるごとをわたしはちゃんと、愛したい。面倒見てくれたひと、その恋人、それぞれに対して、色々あるだろうけど、どうなってもちゃんと幸せになってねと伝えることが、その恋人にとっても、ここにいたいと選んでもらえる方法なんじゃないか。

変に信頼も信用もしなくていいけど、きっと変に敵を作る必要はない。だれかを悲しませる必要もない。必要なのは圧じゃなくて、安心なんじゃないか。向かいたい方向はどこなのか、そこに向けて、大切なものに大切だとか、力が必要だとか、ありがとうだとか、素直に伝えていければ、それでいいんじゃないか。

誰を悪者にしたいわけじゃないよ。自分も、誰しも、昨日までよりも今日、が明日につながればそれでいいよね。

そして今回大切な人にこう思って改めて感じた。
自分を大切に思ってくれる人たちのためにも、自分は、不幸になんて、なってやってはいけないや。

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