色んなものを手放して2年間を生きる理由


①大切にしたい人を
より大切にできるようになるため

前までのわたしには、重い荷物を抱えたまま、山を登る筋力がなかった。
すでに所持している人生で持ちたいものの2番を持ちながら、1番の山に登ることができなかった。
2番を持ったからと1番を諦めることができる人もいると思うが、わたしはそれを選ぶことができなかった。
1番を追わなければ、私は死ぬ時に後悔をする。1番を追わなかったことで、2番を恨んだらどうするのか?1番を手にしてない、追うことができない、追うスピードが遅くなることで諦めることになったり、身動きもできないままに、他の1番を追う人間に嫉妬せず、祝福し愛することができるのか?できなかったのが結論。他人に自分の夢を押し付ける人間にはなりたくなかった。自分の夢は自分で追う責任をちゃんと引き受けられる人間でありたかった。
1番を追わずに、2番を大切に出来るわけがなかった。そして、自分を大切にせずに、人を大切にできるわけがなかった。

生き続けるのならば、1番を追える筋力を鍛えなければならないのだ。その時必然と2番を共に抱えることができると思う。
わたしが2番を手放すことを決められたのは、生き続けることを決めたからも1つあるのだろう。

あの時のわたしには荷物を抱えたまま山を登る筋力がなかったし、今もまだない。荷物を手放しただけ。しかし、筋力が備わる見込みはある。通路は見えている。1番というでかい山を登るために、小さなゴールとして、小さな山を設けては、着実に登り始めているのだ。
この2年はめちゃくちゃ大事なのだ。1も2も、どっちも大切に持ち続けられるようになりたいのだ。

サイズ違いのボールとビーカーの原理と一緒か。はじめに大きなボールから入れなければ次から小さなボールは入らない。
わたしが動画を見た時は、1番大きなボールは大切な人と過ごす時間で、2番が仕事なのかな、という認識だった。しかしわたしにとっては0.5番に、音楽があったのだな。

大きな壺の話
https://youtu.be/qyfYNb_SdHM

②2年後を
より穏やかに生活ができるようになるため
たとえ音楽を手放しても後悔をしないため。

本当は、音楽を辞めるため。だった。
音楽を生み出すのは苦しいから、
本当はもう諦めたい。
音楽はやりたいが、売れたいわけではない。
生きた、思考した証拠を残したいし、誰かのための商業音楽ではなく嘘偽りのない自分の納得できるものを残したい。
続けるのもいいが、穏やかに暮らせないくらいならば、それより、残したい意思の方が強い気がする。
やれることだけしっかりやれば、死ぬ時に後悔もしないと思う。

だから、もうやめよう。
でもまだ辞められないな、まだできたことがたくさんあるし、まだ最低限残したいものもある。
最後に「辞めても後悔しない」
そう思えるように2年間いま出来ることをやり尽くす、そんなつもりでいた。

しかし、改めて腹を括って、成長するための環境に身を置き始めてから変わった。出会った人たちと過ごす中で、辞めないという結論もありだと思い始めることができた。
苦しくないまま音楽を描くことができるようにもなりそうだと思えてきているからだ。
だから、いまは、辞めるためではなく、辞めても後悔しないくらいに、できることだけはちゃんとやりたい。

1番を終わらせて2番を抱えるのではなく、
1番を抱えたまま2番もかかえたい。
もしくは、1番を傍らでできるようにしつつ
2番をメインにしたい。
それならどちらも大切にできては、後悔もせず、おだやかにくらすこともできる。
うん、全然出来ると思う。

余談だが、終わりを決めることで、そのゴールに達した後も続けることができる経験というのは、昨年一年の死亡願望もそうだったが、結構あるのかもしれないな。

死んでもいいくらいまで覚悟をして、初めて少しの芽を出せる堕落人間か。
とかふざけたようで、的はえていることで、ゴールを決めて死に物狂いで成果をだす、がわたしの習性になっているのはもはや当たり前。
いままでも、これを残せたらわたしの生きた意味がある、と思っては行動やイベントを立ち上げ、ゴールに辿り着いたときは、何ももうやることがなくなる そんな感覚だった。

プリペイド式の人生、使い切りの命から、契約式の人生に変えたのだから、これからは死なんけど、死ぬ気で腹括っていかなきゃな。やってこうぜ
とはいえ、日々はおだやかに。
でかい山に向けて、少しずつ着実に小さい山を登ってゆくだけ どんなに悲しいことがあったって、でかい山登り続けられるようにするには、小さい山を登る、が 何よりの近道だからな
やってこうぜ。

余談だったが、ちょうどいいからここで終わりにしとくか。やってこうぜ。

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