あれから10年
当時はまだ新潟にいて、放送局で経理の仕事をしてた。建物の3階で仕事をしてたら大きな揺れが。
元々地震の多い土地だったので、最初は「また地震か…今回は横揺れだな〜」なんて思ってたけど、その揺れがいつまでも終わらない。ひどく長い間ぐわんぐわんと揺れてるものだから、乗り物酔いした時みたいに気持ちが悪くなった。
放送局だから仕事中もずっとテレビはついていて、自局の放送を流してたけど、災害時はやはり国営放送が一番早くて正確なので、チャンネルはすぐに切り替えられた。
ゆっくりとうねる黒い水の塊がどんどん膨らんで、そのうち壁のような高さになったり、想像もつかないチカラで車や家までも押していった。
現実とはとても思えない光景に、同じ部屋にいた全員が無言で画面を見つめていた。まさに言葉を失った瞬間。心の中では何回も早く逃げて!早く逃げて‼︎と叫んでいた。
徐々に日常へ意識が戻り、先を見据えた段取りが次々と取られていく。放送局なので取材に行くための手配は山盛りだ。
当時は金曜日の午後.14:46。経理なので現金の準備をしておかねばならなかったが、銀行の窓口は15:00まで。当日は間に合わなかった…。しかも週末…。その後どうしたのか聞いたけど肝心な所は忘れてしまっている😅
あとはガソリン等の燃料の手配も早かった。当然福島の系列局へのヘルプも視野に入れて手配されていたと思う。とてもスピーディーで抜かりのない手際に感心すらしてしまった。さすがでした。
前の年の夏にはニュージーランドの地震があり、その時も富山にキー局がないため(これで何処なのかバレバレですが😅)新潟から取材陣が遠征してたので、この期間は本当に色々あったんだなぁ…。
新潟に住んでた時にはよく仙台のLiveを観に行ったりもしてた。当時の会場名はグランディ21。超満員の会場で一瞬の"生"の喜びをみんなで一緒に体感しワンネスを感じた場所に、震災直後は対照的な棺が静かに並べられている光景が頭の中にリアルに浮かんで、何だかわからない、誰に向けてる訳でもない悔しさで震えがきた。
なんて無力なんだろう…。
結局何者かに生かされているだけで、明日死ぬかもしれない儚い一瞬に過ぎない。感謝して楽しまねば…という想いがより強くなった。
みんなで今の幸せを満喫できますように。
ご冥福を祈りながら、宮城セキスイハイムスーパーアリーナの音楽の日を観つつ…10年前を改めて振り返りました。
なんかもっとちゃんとまとめたいけど、ワタシのチカラでは今はこれが限界です。
手仕事・手づくりへの興味津々。無から有を作り出せる才能にも興味津々。