26. 問いと願い
自分はどんな時 何をしている時に喜びや充足感を感じているのだろう…
と、問いが浮かんだ。
瞬間的には何も思い浮かばなくて、少し焦ったけれど、あった。
歩いている時
庭仕事をしている時
観ている映画、読んでいる本に心が動いた時
飛ぶ鳥を見ている時
好きなものや人を見ている時
“おいしい” を親しい人と共有できた時
どんなお天気でも朝でも夕でも、自然の光の中で空 雲 月 星を見ている時
好きな音楽に合わせて1人で歌ったり踊ったりしている時
こんな風に喜びについて考えている時
文字を書いている時
他にも、いくつも。
このところ喜びの源泉を捜すような思索が長くなった。
日々、生活の中では、喜びだけではないあらゆる感情が勝手に沸き出ては消える感じがする。そして自分の感情は、自分の内からしか生まれない と信じてしまっている部分もあって、激しく振り回されて危ないことがある。
感情とはなんだろう、
なぜ扱いにくいのだろう…と考えていた時、
「理性がその人自身で、感情はBGM」
確かこんな感じのことを、観ていた哲学の番組で聞いた。
感情はBGM…っていいなと思った。
感情がBGMなら、レコードやCDのように捉えれば、力を振り絞って立ち上がって換えることができる、コントロールはけっこう自分でとれると思える。
または、たまたまその時、そこで流れているメロディーだとすれば、変えられないのは誰のせいでもないと、それ以上あがかなくてもよくなる。
音楽のように、軽やかさ 重さ 暗さ 明るさ 奥深さ、、テンポも抑揚も大きさも多様にあることが魅力であり必要で自然だと ためらいなく受け入れられる。
このところ重きを置きすぎていたから、たまには自分の中での感情の注目度をもっと低くしてみるのも良さそうだ。何かが停滞し始めて、ちょっと良くないかも…と感じたら、窓を開けて換気する気軽さで、感情も一新してみよう。
反対に、時にはどこかから流れてくる、初めての音楽にも身を任せて踊ってしまおう。
こだわって、留まって、をしつこく繰り返しても良くならないものもある と、あちこちで得た学びを、仕舞い込まずに広げられたら舞台ができそうだ。
のびのびと踊れてしまう広さの。
生きてきた長さの分、見聞きした 記憶、しきたり、順序、正統、などがよぎっても、とらわれないで、BGMだって聴かなくったっていい。目に写る事物、環境が自分の動きの連なりの先に良くなっていくことを想像する。
表情 姿勢 仕草 運動 洗濯 料理 食事 片付け 掃除 、 、 、
日常を形づくるあれこれ。
日常の中の全て。
日ごとにまた動きを重ねられるということ。
その尊さを感じられる肌でいること。
平常心の時にいちばん強く在れる人になりたい。
素敵な踊り手のように流れる音楽と対等に生きたい。