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9.noteに文章をかき始めたいきさつ

これまでインターネットを利用はしても、中に入る感覚のものは、なんだかつかみどころが無くておっかなく、何年も前に少し足を踏み入れてはひっこめて…を数回繰り返した後は意識して距離を保ってきた。
でも、心のどこかには、何かかいてみたい気持ちはあり、それを自覚しながら見て見ぬふりをしていた。

1年以上前、よく聴くラジオにゲスト出演していた方の話がとてもおもしろく、番組からのリンクを開いた先がnoteの記事だった。そこからどんどん色々な人がかいているものを読むようになったわけではなく、その方の記事どまりだった。
それから半年ほど、また別のきっかけで興味を持った方の記事を読むようになり、その時初めてnoteがどんな場所なのかをふんわり知った。

2人目の方の記事を読むようになった頃は、何になのか 理由を考えることもできない位、ただただ疲れていて社会生活はぎりぎり取り繕えても、好きだったことにさえやる気がほとんど維持できず、意識下と無意識下両方で、見て見ぬふりをしていた自分の気持ちが、だいぶ壊れてしまっていた。体調も崩し、きちんと対処をしなくてはいけないことが明確になった時だった。

自分がある程度良い状態にないと 大切な人を大切にできない。それが自分をもっと苦しくさせる。
苦しいと 身体はそっとこわばり そのこわばりは心にも及ぶ。
心がこわばると 誰かが伝えてくれる優しい言葉やあたたかい想いが聴こえなく 分からなくなる。

大切な人は“きく耳を持たなくなる”と言っていた。
“きく耳”を既に持たなくなっていた自分の内にその意味が入ってくるのにとてもとてもとても時間がかかった。

生来に色々な原因も重なって自己批判が習慣化していて、その習慣のために欠点ばかりの自分と常に向き合わざるを得なかった時期が多感な頃の何年間にも渡った。すると自然に自分を嫌いになり 嫌悪感は深まりすぎて 自分への興味が無くなって 最終的には知りたくも見たくもなくなった。

それでも、大切な人や好きな人はいた。

『嫌だから』と、自分をほったらかしにしたまま大切な人とは居られない。無関心からの悲しみは本人だけではなく近くの人も傷付ける。
それは一番身近な大切な人が、今も忍耐強く伝え続けてくれている。

周囲の人をできる限り傷付けずに、その傍で素直に自分のままでいられたらいいな…と願う気持ちは幸運にもまだ残っていたので、そこへ1ミリでも近付くために、本やこのnoteの記事で学んだり人に助けてもらったりするようになって半年以上、数週間前にやっと自分が“きく耳”を持たない状態だったと自覚したのだった。

学び、教わったことを取り込むスペースを自分の内につくりたかったので、誰かに話す変わりに思い浮かぶことをかいて外に出してみたくて、なんとなくいいかも…とnoteを始めたのが、約1ヶ月前。続けられるだけかいてみたい。








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