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33月に寄せて 其ノ肆:『結局、』④

0/6:はじめに

引き続き、センシティブな話題を取り上げる。今回は正義とイジメである。
どちらも、未だに擦られ続けている疫病騒動に大きく関わっていると思う。
これまでの社会とは、そういう繊細なモノやコトの上にこそ成り立ってきた
「砂上の楼閣」だったと今改めて痛感している。思いやりも烏滸がましい。
俺たちは平時に大口を叩いてきたわりに、鈍すぎたのではないか。

イジメ問題の最中におり、心を痛めている人は無理に読まなくていい。
気付けば1万字を超えた前回から、少ない量で書く。

1/6:イジメ

悠久の歴史の人間社会、いや生物の営みの大きすぎる課題の一つに、イジメ
問題というものがある。集団の中で、何かしらの特異な点がある個体を時に
理不尽なまでに排除し、時に命を絶たせるまで排斥するものである。

かくいう俺も、何度か触れたことがあったが、幼少はイジメを受けてきた。
まあ原因は俺にもあったが、こんなのは氷山の一角で、本当に理不尽な理由
だけで凄惨なイジメに遭った者は山ほどいるはずだ。

これが行き過ぎれば、差別にまでなる。広くは村八分。酷くは人種差別だ。
一時代前にも、感染症による隔離政策と、それにまつわるイジメや差別すら
あった。人間にとっての、最大の社会問題である。

身近な問題であっても、ちょっと顔のツクリがどうとか、体臭がどうとか、
言葉遣いやら所作がどうとかでイジメが発生してきた。残酷だがここに断言
する。イジメ…… いや虐めとは、完全なる悪、愚劣な行為だが、人が人で
ある限り「絶対」なくならない。そのたびに諫め、減らすほかないのである。

2/6:光と影

いつからか、人間は自らを分断し始め、陰・陽から「陽キャ」「陰キャ」と
レッテルを貼った。「光あるところに影あり」のような、互いに対の関係と
なる陰・陽などではない。一方を讃え一方を謗る、醜いレッテルである。

大人しいから陰、騒がないから陰、声が小さいから陰、抵抗してこないから
陰であり。そのうち、その特性自体が「ネガティブ」なものであると叩かれ
始める。俺はここに、多様性などないと思っている。

時は遡り前世紀後半、高度経済成長。経済には明るくないので、この項目は
中身が薄いことをご了承願いたい。戦争という名の、人類史の災禍たる爪痕
から立ち上がり、景気が一気に回復していった。その原動力とは並々ならぬ
活力である。日の出の勢いとはまさにこのことで、焼け野原から20年で、
新幹線が走るまでに至った。

そこからも日本は成長を続け、世界に名だたる先進国になった。この躍進に
は引き続いての活力や、技術の革新、世界との連帯や競争。競争とは国内で
も積極的に行われ、それがこの国のカンフル剤になっていただろう。

しかし。ここにこそ本当の「光と影」がある。人間とは生まれ持った特性が
違う。気力や体力、性格、家柄、何もかもが同じ人間などいない。平均値や
基準点でひとたび線を引いてしまえば、必ずその上と下が現れる。

線の下にいる者が、いつだって迫害を受けてきた。最も身近なものこそが、
先述した虐めである。過去に虐めを受けてきた俺だから言う。

「虐めを受けたことは何年経とうが、絶対に忘れない」

古くはそれが恨みつらみ、怨念になり、呪っていったのだろうか。どれだけ
技術が発展し、車が宙を飛ぼうとも、人間の根源は変わらないだろう。

ついには、そのまま社会に出られなくなったり、最初から社会に出なかった
者も出てくる。引きこもりである。フランクに「ヒッキー」などと言うが、
とてもそんな軽薄な言葉で片付けられるものではない。内閣府が10年前に
採ったデータですら、広い意味での引きこもりの人数は15~39歳だけで
70万人近くいる。またいわゆる「不登校」ですら20万人近くいる。

彼らの受けてきた仕打ちを考えれば、もはや生きるだけでも精一杯なのだ。
日本は豊かになったとよく喧伝されてきたが、俺はとてもそうは思えない。
豊かにだけなどなれるはずがない。その裏に割を食っている者が必ずいる。

ネットの世界に長くいると、その怨嗟の声に触れることが本当に多かった。
余りにも大きすぎる社会に抗うすべや気力などなく、ひたすら内に向かい叫
び続けるだけ。「こんな社会など、滅茶苦茶になってしまえばいいんだ。」
一体、どれだけの数こういう声を聞いたか。

外に出れば自信を失わされ、ひっそりと生きることを余儀なくされていた。
声を上げることもできず、方法も分からない。ただ時が過ぎるのを待った。
2020年の晩冬。図らずも、彼らが長く強いられてきたことそのものが、
ついに動かずして「正義」とされた。

3/6:大義名分

とにかく人と引き離す。人に近づかない。人と会わない、喋らない。飲み会
など言語道断。顔の下半分すらも晒してはいけない。俺たちが暮らしてきた
社会は、180度の転換を迫られた。全てはただひとつ、あの頃の、未知の
ウイルスを「防ぐ」ためだった。

人権などあったものではない。とにかく人は「歩く生物兵器扱い」だった。
他県から来た、素顔でいる、ただそれだけで激しい迫害を受けた。そこには
「命を守るため」という大義名分があった。あれだけついこの間まで問題視
された「引きこもる」ことはそのまま、「社会の規範」になったのである。

何度も言うように、命とは、人が守る最たるものである。雨後のタケノコの
ように現れだし、「おうち時間」に始まったメディアを席巻した綺麗な言葉
の数々、「おこもり○○」「巣ごもり○○」。この状況を、もし20世紀に
引きこもりを苦にして命を絶った者が天から見ていたら、どう思うだろう。

あの当時、ネット界隈に沸いた言葉は、完全に憂さ晴らしのそれであった。
「俺たちが正義だ」「引きこもるだけで世界を救う」
「陽キャどもは俺たちを見習え」「私たちの苦しみが分かったか」
「自粛に苦しみなどない。もっと長引け」「コロナよ続け」

顔も名も出さぬネット上なら、いくらでも言えることである。俺もかつては
そちら側だったから気持ちは理解できた。しかし、口に出してしまえば戦争
である。2年半経った今も、未だにそのような論調で飲み会復活や出社復活
を叩く者がいる。ある者は存在を確立したいがために、ある者は精神衛生の
為に。またある者は、己の怠惰の為だけに。

4/6:正義の反対は、また別の正義

だが、これが悪かどうかと問われれば、即答できない。何せ彼らが、敵とし
て憎む人間にやられて来た仕打ちこそが、悪意に満ちたものであったからで
あり、憎むのが社会そのものだった場合は、そこに善も悪もないのである。
社会というものは、血の通った人間が参画して初めて、善や悪の色に染まる
ものではないかと考える。あんまり大きなことは言えないが。

彼らが叫ぶことは「正義」なのだ。彼らの正義なのである。いつの頃からか
有名な言葉をここに記す。

「正義の反対は、また別の正義」

あるいはそこに「慈悲と寛容」が付け加えられる。元ネタは絵柄の割に内容
が重たいことに定評のある某野球ゲームである。イケイケ・ドンドンの時代
に人々がやってきた無茶苦茶なことも正義。その割を食った人々が内に向け
叫び続けた思い、とくにこの2年半において叫ばれ続けた逆襲のような願い
も正義。どちらかが許すまで、受け入れるまでこの論争は終わらない。

5/6:結局、正義を振りかざしたい

全員が少なからず正義という者をもっている以上、それをどう表明するか、
声に出すのか、内に秘めておくのか、あるいは野蛮な手段に出てしまうか。
人の世では時として「どちらが正しいか」「何が正しいか」を決めたがる。

先述した社会の色づき方。善や悪の色にどう染まるのか。それが、正しさの
ぶつかり合いなのだろう。さらにはその染まり方をもって、そこでも良い色
なのか悪い色なのかを定める。

広すぎる社会から一歩踏み込んで、ある場所での「色の染まり方」。染まる
過程とその結果としての色に、その場所の存在が担保されるだけの基準を定
める。場所の秩序を保つもの、「ルール」である。そこを使う人の中にも、
善と悪の色がある。これが基準を外れていればならず者として弾かれ、時に
出禁をくらい、酷ければ法のもとに裁かれる。

人と人とを比べた時に、まずそいつ一人の正義だけで他人と比較し、それが
正義にそぐわず出っ張っていれば、それを出来る限りへこませようとする。
引きずり出す事よりもへこませるほうが簡単である。自分で何とか出来ねば
他人に頼んででもへこませる。出る杭は打たれるのである。もしくは、自分
から関わらずに去るかである。

今まで、執拗ないじめを受けていた者は、余程メンタルが強かった者以外は
自分から正義を主張することなどなかったはずだ。強かった者は弁論大会の
ネタにしたり、何度も学級会を開いたり、逆にやり返しに喧嘩を申し込みに
行ったり、相手の家族も巻き込み裁判に持ち込んだりしただろう。

こと、今回の疫病騒動は「全員の問題」になり、「全員が正義を振るえる」
またとない「契機」だったと思う。国を挙げた大義名分に沿った正義の表明
あまつさえそれを他人に振るうなど、それこそ80年前の戦争以来だろう。

「国の言うことに従えない者は『非国民』である」と、歴史の教科書や漫画
で何度も目にしてきた。そんな無茶苦茶なことを言われるのかと疑っていた
が、この2年半においては、一方的に出された感染対策ではない方法で生活
しただけで、『非国民』どころか『ニンピニン』『人ゴロシ』扱いされた。

果たして戦時中、『非国民』と言われた先人たちはどれだけ辛い思いをして
いたのだろう。平和教育では決して学ばない体験を、爆弾や銃弾が一切飛び
交わない21世紀の日本で「強いられる」とは夢にも思わなかった。

6/6:今、「平和」か?

正義とくれば、平和が良く論じられる。何も「平和」とは、戦争が起こって
いない、テロも起こっていない状態を指すのではない。その社会にいる人々
の心の平穏が担保・保証されている状態が「平和」なのであると思う。

今一度、単純に日本で叫ばれる平和とその日付に焦点を当てる。この疫病の
騒動が巻き起こったのが2020年1月である。その間、
「6.23」も「8.6」も「8.9」も、「8.15」も既に3回過ぎたのである。
その全ての日付で、日本人は恒久の平和を祈願しただろう。
「これからも平和でありますように」。その祈りは正しい。俺もそう思う。
戦争などあってはならない。

果たして、「平和が戻りますように」と祈った人間は、何人いただろうか。

【俺はこの2年半を「平和だ」と思ったことは一切ない。】

俺のTwitterにて固定ツイートにしている叫びの一部(とそれを少し
更新したもの)をここに貼って、この項の〆としたい。

手と手が触れただけで、非人間扱いをするような光景が「平和」か?

人々が集まり話をするだけのことに、時間制限を付ける光景が「平和」か?

人が顔を晒せない状態が是とされ、
素顔を晒せば非人間扱いしていいのが「平和」か?

風邪と化した感染症を過剰に扱いを重くし、
それにかかる金を臆面もなく稼ぎ続けるのが「平和」か?

その感染症にかかった人間がひたすらそれを詫び続けるのが「平和」か?

その近くにいた人間を感染源や病原菌とし責め立てるのが「平和」か?

把握されているだけでも3万人以上に副反応、
内7500人近くが重篤患者となり、
内1900人近くが亡くなったワクチンの害を矮小化するのが「平和」か?

諸外国の状況を見過ごしたまま、対策の強さ世界一なのに
10週間連続で感染者世界一となり、
過程と結果が大きくねじれている現実を、
国の特性に仕立て上げた状態が「平和」か?

【其ノ四 完】

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