33月に寄せて 其ノ壱:『結局、』①

0/7:はじめに


自分の経験を交え、この疫病騒動に溺れる日本と日本人に思う所をぶつける『結局、』シリーズを書いていくことにする。

まずはじめに、たかが31歳の一庶民が、かなりマクロな目線、それもこの2年半の疫病騒動という非常にセンシティブな局面において、日本人観を語ることをご容赦いただきたい。そして、それほどまでに俺が大多数の日本人に対し憤りを通り越し、呆れにも似た感情を抱いてしまっていることを知っていただきたい。まあ、そんな思いを書き散らす場にしているので、今更ではあるが……

たびたび、自分が31歳かつ最も古い記憶が1歳である為、どれだけ遡ろうが1991年以前のことは想像の範囲でしか書けないはずであり、社会に触れ始めた大学1年生の前年すなわち2009年以前のことなどを社会的に語ることもできないはずで、こうだったのではないかという憶測が多く飛び交うことも断っておく。

試しに下書きをしてみたら本文だけでゆうに5000字を超えてしまったこともここで断っておこう。思ったことをすべて書けば、前々から長くなりがちであり、Twitterにおいても最長で49ツイートに及ぶツリーをぶら下げたことさえあった。週に1本書けたらよいくらいに捉えているので、暇があったら読んでもらえれば幸いである。

1/7:結局、休みたい

2010年代。世間はブラック企業・労働のあり方が取りざたされ、長引く残業、未払い賃金、払われても明らかに対価に見合わぬ低賃金。2016年には、超大手広告社Dで20代の社員が、過労の末自殺を図った。一応は「働き方改革」と銘打ち、後年ようやく長時間労働に対し公から鉄槌が下されたように思われた。

俺がいた会社は、業種が特殊だったせいか、繁忙期の残業時間は月によって100時間を超える等、友人に言おうものなら開口一番「大丈夫か」と心配されるレベルだった。そんな中での息抜き手段はもっぱらパソコン、スマホにてTwitterやまとめサイト、5ちゃんねるを覗くことだった。

思えばそれまでも、SNSの中では怨嗟の声にまみれていた。少し口を開けば「休みたい」。「働きたくない」。「オフトンもぐりたい」。どれか一度は見たことがあるだろう。それは何も社会人に限って言えた事でもなく、学生であっても例外ではない。何よりも学校に行くことが厭だった生徒は、当時からも多く居た。

その理由は深く切実な、心理的なモノも数あれど、浅いところではただ勉強や講義、研究がイヤであったり、部活がイヤであったり、同級生や先輩、後輩、とにかく人間がイヤであったりと、今にして思えば浅い事に関しては

「自分で動きさえすれば、なんとかなったのでは」

と思えることが多い。卒業式になれば体育館の席に置き去りにするようなものではなかろうか。虐めなど本当に非人道的で悲惨なものはずっと心に刻まれることは大前提として、だ。

ただやはり、ずっと張り詰めた気分でいられるはずもない。しかし、どこか行き急いだ世の中。高速・即時・完璧が求められたあの頃。数多くの人が、そこから逃れるため、「結局、休みたい」に帰結する思いを抱えていたことだろう。

2/7:コウモリを経験したから分かる

俺が学生の頃を思い起こせば、中2の頃だ。当時そこそこの虐めをうけていた俺は、学校に行くこと自体が億劫になっていたが、登校してしまえば勉強だけしてりゃ何とかなると、インフルを除き無遅刻無欠席。なんとも宙ぶらりんな、コウモリのスタンスでいた。

あの年は、よく台風が来た。2004年のことである。台風で学校が休みになると聞けば、その1日を休むというだけのことに歓喜した。自分から動くことなく、「休ませてください」と勇気を振り絞り、平身低頭にお願いすることもなく、公にお墨付きで休むことが出来る、本当にただその一点にだけだった。社会人になって以降、2019年までに3度ほど平日に台風が襲ったが、結局のところどれも任意出勤となり、怨嗟の声を上げつつ出勤した。

実の所、台風が襲ってくる前になると、Twitterのトレンドには「会社や学校を『休む』か『休めない』」ことにまつわる単語が躍った。これは今も変わっていない。もっと言えば、日曜日はTwitterのタイムラインも、月曜の到来を嘆くものが押し寄せる。半世紀にわたり放映されている国民的アニメの名を冠した症候群とやらが、名をとどろかせるほどだ。

一方、中3の頃、俺には片思いの女子がおり、学校に行くのが楽しみで仕方なく、こんなことは全く考えなかった。間違いなく言えることは、学校や会社に何かしらの「行き甲斐」を見出している者は、おしなべて月曜日を憂鬱に思わない。それが片思いであろうと、成功の見込みがあるプロジェクトであろうと、いじめ加害であろうと。

そして、某シン・怪獣映画を観ては「会社も破壊されないかな」、隕石が降るさまを夢想しては「学校が壊れないかな」等、どこかで「天災など自分の力ではどうしようもない事態で、行きたくない所に行かなくてよくなる」という、局所的な破滅願望を持った者が一定数居たはずだ。もっと浅いところでは「非日常」。また別の章で触れるが、「リア充爆発しろ」も含んでいいだろう。

とにかく、「自分で動かずして自分に楽な環境を手に入れたい」。俺はその考えも理解していたつもりだった。俺にも少なからずそういう理想はあったが、中3から先、特に大学時代は「自分で動いてチャンスを手にしたこと」が本当に『何度も』あったため、受動的な者と能動的な者、どちらの思いも分かるという、ここでもコウモリのような思想だった。俺はいわゆる「陰」も「陽」も経験してきたのだ。

3/7:降って湧いた非日常

2020年3月。一斉休校を嘆いた者は、おそらくはそれまでの日々に満足しており、何かしらの生き甲斐があり、自分の動きを止められることを何よりも嫌った者だったと思う。自粛にしてもそうだ。

これがほんの何週間かの話であれば、恐らくは降って湧いた、ちょっとした「リフレッシュ期間」くらいに捉えただろう。「おうち時間」「巣ごもり」などのぬるい言葉で宥めすかし、芸能人もこぞってこのワードを叫び、どこかで「非日常」を感じていた者は多かったと思う。まさか、百週間を経るとは大多数が思わなかっただろう。

だが思い出してほしい。台風の前の日の心持ちを。あれこそ「非日常」だった。そして事前に、豪華客船や道端で倒れる者の映像で散々脅されていた。

台風ですら直前で逸れることがあった。タイミングによっては次の日は普通に登校となり、あえなく「日常」へと戻されていた。しかしあの時期、間違いなく「非日常」が約束されていたのだ。政府どころか世界が公認した状態だ。誰も逆らえない、確定事項だった。

さて、ここで学校は休みにされ、一時期は入学式どころか制度自体を歪ませ、新年度開始を9月に延ばすような話までささやかれていたが、入学式が桜も散った6月に挙行され、死んだ国の新年度が、そこから始まった。

4/7:その頃の俺

その頃の俺の話をする。会社はもちろん止まるわけにもいかず、俺がいた会社は2020年5月頃から1時間の時短がしかれた。製造業だったが、感染リスクとやらを分散させるべく、始業が1時間早く定時が2時間早い組と、逆に始業が2時間遅く定時が1時間遅い組とで分けられた。

俺はそれまでの働き方に疲弊しており、冒頭でも述べた通りのブラック企業で、転職を考えだした時期だった。

俺は後ろ倒し組に配された。なにぶん部署でも若く、雑用などで、いつもサービス残業を1時間ほど強いられていた。さらには会社の権力者は別の組が多かった。すなわち、

「アタマを2時間削られただけで、ケツの時間は同じ、定時ジャストで家路に就ける、それでいて給料は据え置き」

……という奇跡に近い状態が、図らずももたらされたわけである。

起床時間が2時間遅くてよくなり、俺は、どこか救われた気分にすらなっていた。会社にいる時間が短くなるのならば、この際どうでもいい。騒ぎが終われば転職すればいい、『助かった』とさえ思った。

しかし、その有頂天な気分はほどなく崩された。

当時の俺の、平時における起床時間は、午前6時20分。始業が8時だったためである。それが2時間も後ろ倒しになったことにより、朝のニュース番組を腰を据えて観られるようになった。

そこで目の当たりにしたものは、子どもたちが学校に行けず、素顔も見せられず、家に閉じ込められ、学校の再開を今か今かと待ちわびる光景だった。その最中ひたすら脅す大人たちが、来る日も来る日も同じ話題で唸るだけの画面だった。気が付けば、最初の緊急事態宣言が解除されてもなお、なんら変わることもなく、壊された日常が続いていくさまを映し出していた。

そこで俺は、愚かさを知った。このあまりにもちっぽけな救われた気分は、子ども達の嘆きの声の上、ついこの間まで存在した日常が歪められ、防疫にのみ特化した「日常のようなもの」の上に成り立っていた現実を、まざまざと見せつけられた。

5/7:掃いて捨てた日常

幾度となく仕事でやらかし、叱責され、産業医を呼ばれるほどストレスを溜め続け、掃いて捨てたクソみたいな日常すらも、誰かのかけがえのない日常と同じくするものであり、楽しかった思い出の日々と地続きであり、本当に尊い物だったと思い知らされた。

確かにこれは致死率の高い未知の感染症で、どうなるか分からない。まして一般市民にできることなど、本当に少ない。とりあえずはお偉いさんの言われるがままにしておけば間違いないだろう。

しかし、あまりにも話が早すぎる。あまりにも病的に、過剰なまでに人と人とを忌避させすぎている。ここまでする必要が、果たしてあるのか……? この考えには、2020年4月末の段階で行きついてはいた。

いつしか俺は、感染症も怖ければ、塗り替えられた日常もまた怖いという、どっちつかずの化け物になっていた。望まぬマスクをしたままの外出で心を蝕まれ、それでも俺を心配した友人に連れられた馴染みの店に行けば林立するアクリル板。趣味のTwitterや5ちゃんねるでは、怨嗟どころか突如もたらされた非日常を歓迎する声で溢れていた。

精神崩壊するまで、時間はそうかからなかった。29歳の男が両親の前で
泣き崩れたのは、2020年5月21日であった。

その後、1ヶ月ほどで時短要請が打ち切られた後、その状況を正面から受け止めた。待てど暮らせど戻らない日常、それを戻さない政府に憤りを抱きながら、当時の俺は……ワクチンを待っていた。

その辺りの話は別の章で語ることにするが、某団体のとある男までもが「熱で休める」とまで、とある動画で歌い上げ、ある種「感染して社会的な制裁を受けることもなく、かつ政府お墨付きで『休めて』、二日ほど副反応に耐えれば抗体が出来、騒動も終わらせられて社会の役にまで立ててしまう」
そんな夢のような代物と捉えた者は、わりと多かったのではないかと推測する。いや、そうでもなければ、あんなものに1億人が群がらないはずだ。

そして2021年11月。一度は収束していくかに思えた騒動。その最中でも、まとめサイト等をひとたび覗けば、この騒動の終わりを嘆くたわけ者が少なからずいた。

「休めなくなる」
「顔を晒さなければならなくなる」
「儲からなくなる」……

この章の主題である「休みたい」に限らず、日本という国に住む人々の心、その水面下で長く蠢いていたであろう様々な問題の、様々な方向に深く根差していた問題だ。しかし、多くの日本人には、そこまで考えるような気力はもはや残っていないように思えた。「学習性無気力」。度重なる緊張と緩和の連続で、おかしいことをおかしいと叫ぶ力すら無くなっていただろう。

6/7:悲劇にすら裏打ちされた黒い感情

2022年7月8日。参院選を2日後に控えたこの日の昼、疫病騒動のいっとう初めに首相を務めた安倍晋三氏が銃撃され、亡くなってしまうという、あまりにも衝撃的な事件が発生したのは記憶に新しい。

まさかこんなことが起こるとは、と多くの国民が思っただろう。俺もそうだった。元首相がこの日本で白昼に暗殺された。政治的思想の向き次第で、この事件にすら首を突っ込み、喚き倒す連中も多くあらわれた。その内、最長の任期であったことや、各国との繋がりを密にしていた等、政治界での活躍を讃えられ、異例に等しい「国葬」が執り行われることになっている。

この国葬を取り巻く諸問題についてはここでは触れ(られ)ないが、本当にその何十倍も「しょうもない」、こんな場面ですらこんなことが言えるのかという輩はTwitterに確かに存在した。トレンドに上がり始めたころ、その中を覗いてみると、決して少なくない数でこうつぶやく輩がいた。

「国葬なら休みにして欲しい」

俺は愕然とした。どこまで浅いんだ。こんなことにまで縋って、休みたいのかと。ああ、よほど此奴らは日ごろ疲れているのかという同情すらひとつもわかなかった。

正直なところ、俺はこの行事そのものの是非については、執り行われる日があまりに遅いのではとか、氏が遺した諸問題についてなども含めて、どちらでもいいと思っている。しかし、まさかこんなところにまで「休みたい」が顔を出してくるとは、思いもしなかった。

7/7:具合が悪い時は休もうや

この2年半で幾度となく過剰に騒がれた疫病騒動の中、時折こんな意見
を耳にした。

「具合が悪い時は休む。休みたい時に休める社会にできたら……」

至極、至極当然のことである。というより「めざせ全員無欠席」「24時間働けますか」に代表される、「休まないこと」がただの押しつけの美徳であり、ここまで「休む」ことが罪や悪のような空気にされてしまった事に対して、「働き方改革」として制度が改められてなお、さらにはこの疫病騒動に陥ってようやく気付かされるという愚かさは、俺を含めて、猛省せねばならない。

具合が悪い時は堂々と休めばいい。元気になったら堂々と外に出ればいい。それが身体的なものだろうと、精神的なものだろうと。短かろうと長かろうと。

俺たちはいつしか「寛容さ」に怯え、それを忘れ、ついに捨て去っていた。このことは何も、「休むこと」に対してだけでない。他の章でも触れていくが、おそらくはこの2年半、とくに日本人の多くは浅い欲求にまみれ、大事なものを本当に多く失った。この事実を浮き彫りにしたのがこの感染騒動だと強く思う。

【其ノ壱 完】

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