「自分勝手」の正体

少し長くなるのが申し訳ない。私の心の中で深い疑問だったことである。
選択肢が多様化し、価値観も多様化している。なにを選ぶかが価値観なのであり、その選択肢が増えた影響で人は多様な価値観を持つようになったともいえるし、もともと多様だった価値観が、選択肢として現れた、またはその選択肢を解放した、ということもできる。
この因果関係に関しては深く興味があるが、どちらにせよ、価値観が多様化しているということは事実である。だが、これを意識的に「悪用」する人達が増えているように感じる。というよりは、あくまで「私(という個人)」に合わない価値観を持っている人がふえてきた、というべきかもしれない。この「悪用」の典型例は、「私」にとって、傍若無人とも言える「自分勝手」である。「それは私の価値観です」と言われてしまうと、それを言われた人は何も言えなくなってしまうような状況が、実際に自分の身に起きたりする機会が増えていないか。例えば殺人が好きなA君がいて、君はその人に「僕は殺人が好きな価値観を持っているだけです。あなたがファッションが好きなのと同じです」と言われたとして、すぐさま否定できるか、ということである。フィクションなどを見ても、多様な価値観が出てきて、空想のものだとわかっていてもその価値観を否定できない感覚はある。それなりに頭の回る人だと、「君は間違っている」ということを安易に言えない時代性のようなものを感じているはずだ。
価値観が多様化している、という事実を「悪用」し、「自分勝手でいい」と解釈し直すことで、他人に迷惑をかけたりしても自分を正当化する人が増えると、その態度はすぐに他人にも感染る、と私は考えている。根本的にそれに違和感を持たない人(考えない人)は、相手がそうするなら自分もそうする、という論理で動くことが多いため、それが鼠算的に増えていくと、モラルハザードに繋がりうる。というのが私の推論である。
そして、この「自分勝手でいい」という言葉が完全に間違っているとも言えないのが困りどころで、違った文脈で用いると、これはいい意味になったりする。そういった多義的な言葉はある意味「頭を使う人間」にしか適切に使えない。というよりは、しっかりとした倫理や哲学を持っている人間ではないと、この例のように、時代の変革に用いられる言葉と合わせて「悪用」される。この場合、私の解釈では「他人を傷つけたり、それに自覚的でない自分勝手は許されない」ということを守る限りにおいて、「価値観の多様化」、すなわち「私の勝手」という態度をとってしかるべきだとおもう。つまり、「価値観の多様化」を「悪用」し、他人の感情を無視するような「自分勝手」は、倫理観の欠けたバカのやることであるし、それに自覚的であるならまだしも、自覚的でないならなおさら、バカの最上級ということになる。
まあそのバカに指摘できるかはさておいて、この主張においては、こういう反論も出てくるだろうことがよそくされる。「他人を傷つけるのが私の価値観である」と。そこを価値観の中に包含してしまうことで、そういったバカは難局をのがれようとするわけであるが、その理論が世界中を支配したら何が起こるのか想像も硬くない。この段階において、ようやく「否定」できるのである。
と、まあこのように長々と書いたわけだが、これを現実の場で言われた時に、あいては「私の勝手でしょ!」と2秒くらいで終わる主張に対して、こちらはこれだけの思考を瞬時にし、勝気な表情をして立ち去ろうとする相手にすぐに否定を浴びせられる人間がこの世のどこにいるのだろうか。大抵の場合が、これをもやっとした気持ちで見過ごしたままにすることがほとんどである、
このように、一見正しく聞こえる主張は、違和感に従ってよくよく考えてみるとおかしな事を多分に含んでいるのにもかかわらず、すぐに否定できないためまかり通りがちである。そもそもそういった主張は頭を使わなくてもいいから、頭を使わない人種がそういった言葉を極端化して使うのである。これもまたモラルハザードを推し進めていくことになるとは思うのだが、普通の良心をもった人間がそれを咎められる社会になっていると期待しよう。まあ、そういった良心を持っている人は生きづらい世の中だろうなと思うわけである。
私の主張としては、頭を使えるエリート諸君は、倫理的、哲学的なことをあらかじめ考えて置かないとこういった思考停止的、ハザード的暴論にすぐに対処できないということだ。頭の切れる天才であればすぐに否定できるかもしれないが、私のようなへいぼんな人間が多いのが世の中だろう。自分が経験した「これはおかしくないか?」という感覚を大事に、なにがおかしいか考えてみると、少しはその良心を壊さず、またおなじようにバカどもの思考停止に乗らずに済むのではないだろうか。