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自分の理解できる世界でしか他者を評価できない。

2日連続こんばんは。73です。
前回、コメントや反応を下さった方々、ありがとうございます。
飽き性だし、地味に1つのnoteに2,3時間を溶かすから、いつまで続くか分からないですが、今晩もお付き合いくださると幸いです。

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私が数日前にTwitterで見たポストで、印象に残っているものがある。

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(引用:https://twitter.com/abc_sakana/status/1254026108246188038?s=20

この内容に共感してくれる人は、私と気が合うかもしれない。

ここでは、「理解すること」と「共感すること」は別個の概念だということを意識して、話を進めていくこととする。

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今回は、「自分の理解できる世界でしか他者を評価できない。」というテーマでnoteを書いてみようと思う。

いくつかの例を挙げてみる。

古代、にまで遡らなくても、江戸時代のような200年前の日本社会においても、不可解な事件が起きると、物の怪の仕業だということにしたり、祟りだとして恐れられていたことも多々あっただろう。
しかし、技術や学問の進化により、後に、その原因が、例えばそれが感染症であったり、自然現象の一種(Ex. ブロッケン現象)だったりすることが判明することがある。
彼らは、自分たちが説明できない現象が起こった時に、それを目に見えない物のせいにすることによって、一応の説明をしようとしてきたのかもしれない。

また、言語に関して言うと、例えば、「『モネの池』(岐阜県)はどんな色だった?」と人に説明を求められたときに、

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「青」と「緑」しか知らない人と、「エメラルドグリーン」という単語を知っている人とでは、表現できる色の幅が異なるということも理解できよう。(「自分が見ている世界の色と、他者が見ている世界の色は同じか。」という哲学的な問いも別途あるが、ここでは省く。)

また、それは、話し手が「エメラルドグリーン」という言葉を知っていたとしても、聞き手が「エメラルドグリーン」という言葉を知らなければ、意味をなさないということにもなる。

つまり、自分の中にある概念(の集合体である世界)が、相手の中に同じ概念(世界)として存在していなければ、伝えたいこともうまく伝わらないという現象に陥る。

あるいは、数学やSPIの問題のように、「1~5の条件の時、正しいのはA~Eのうち、どれか。正しいものを全て選びなさい。」という問題が出された時、1個でもその条件を見落とせば、同じ人物が答えたとしても、すべての条件をくみ取った場合とでは、異なった回答が導き出されるだろう。
このことは、ある1人の頭の中においても、情報の差によって、描き出す像が異なりうるということを示唆している。

ここで、冒頭に掲げたこの画像をもう一度見てほしい。
あなたには、何が描かれているように見えるだろうか。

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これは、トリックアートで有名なルビンの壺で、ご存知の方も多いだろう。
黒色に注目をすれば、向かい合った二人の人物の横顔が見え、白色に注目をすれば、1個の白い壺(盃)に見えるというものである。

どちらの見方も正しい。だからこそ、怖い、というのが私の感想である。
「自分の見方が正しい。」と思い込んでしまった場合、別の視点から見ることができなくなり、最悪の場合、その別の視点から物事を捉えている人と対立しうるからである。

某見た目は子供、頭脳は大人の小学生は、「真実はいつもひとつ」と言っているが、それが分かるのは神様ぐらいではないだろうか。

せっかくだから、法律の話に絡めて言及すると、裁判に関して言えば、あくまで「この裁判で明らかになった証拠からすると、こうこうこういう結論が導けました。」というだけであって、真実のストーリーはまた別にあることも稀ではない。むしろ、そちらの方が多いかもしれない。
にも拘わらず、裁判で真実が明らかになると思っている人が多い(と私は感じている)から、そこに、裁判に対する一般国民の期待と、現実との乖離が存在するのだろうなぁと思ったりもする。

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例のごとく、脱線しつつ色々と例を挙げて説明を試みたが、うまく伝わった自信はない(なんせいつもの癖で思いついたことをパパッと並べただけで、話の連続性がないから、各々行間を読んでいただきたい)。

簡単に言うと、
・人は、自分の持っている情報(物差し)でしか、物事を判断(理解)できない。
・自分が正しいと思ったら、他の見方をして別の結論を出すことはなかなか難しい。
ということを私は言いたかった、ということになる。

裏返して言うと、自分が他者に物事や意思を伝えたり、他者や事物をよりよく理解するためには、自分の判断材料――知識や経験則、語彙力など――を増やす必要があるのではないか。
そのためにも、私たちは日々知見を広めていく必要があるように感じる。

私は、幸運にも、知識が豊富で、優しい人たちが多い環境で過ごしてきたこともあって、自分が相手とうまく意思疎通ができていると思っていても、実は、相手が自分に合わせてくれて、その意図や意思をくみ取ってくれているだけなのではないか、ということを懸念している。
だからこそ、なるべく多様な属性の人と接して、自分の位置を相対的に捉えられるように心がけているつもりではある(偏りがすごいが)。

他方、勉強面に絡めて敷衍すると、ある授業(ここでは大学レベル以上を想定)を1コマ受けた時に、その授業が終わった時点で、授業内容に対する疑問点が1つも浮かばなかった場合には、私は、「=自分は授業内容を何も理解できていない」ということの証左だ、として、危機感を抱くようにしている。
よく、自分がある事柄を本当に理解したかどうかを知りたければ、人に説明してみるのが1番良い方法だ、と言われるが、これに通ずるものがあるかもしれない。


最後に、このnoteを書いている途中に、ふと頭の中に浮かんだ私が好きな言葉を1つ、置いておく。

”Aimer, ce n'est pas se regarder l'un l'autre, c'est regarder ensemble dans la même direction."  "Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.”
(愛とは、互いに見つめ合うことではない。一緒に同じ方向を見つめることだ。)
――サン=テグジュペリ(仏。『星の王子さま』の作者)

私が昔この言葉に出会った時は、「2人だけの世界にこもる恋愛は好ましくない。社会で他者と関わりながら、一緒に人生を歩めるパートナーの方が良い。」ぐらいの意味に捉えていたけれども、別の見方もできるのではないだろうか。

P.S.
『星の王子さま』(原題:"Le Petit Prince")は児童文学でありながら、"On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux. "(「物事の本質は、心でしかよく見ることができない。本当に大切なものは目には見えないんだ。」)という名言は然り、大人が読んでも味わい深いお薦めの不朽の名作。イラストも可愛い。個人的には1番好きな児童文学。

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(3095文字)

【補足】
かなりかみ砕いて言うと、言語が違う者同士で話をすると、相手の言ってることはほとんど分からないよね、日本語を母語とする者同士でも、同じようなことは起こりえるよね。という話。



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