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写真に鮮度は必要か?消費ってなに?_時間軸を伴う写真の話

こんばんは、C_FLATです。ツイッターなどのSNS上にて、写真界隈や、それに限らずデザインやものづくりといった広くクリエイティブと呼ばれるような世界でよく目にする「消費される」といった言葉について私なりの解釈とか、対峙する姿勢なんかをまとめてみようかと思います。

消費という言葉をもう少し分解すると、凄まじいスピードの流行り廃りのサイクルの中で確立されたスタイルのようなものが瞬時に時代遅れのものになってしまい、見るものに目新しさからくる刺激を与えられなくなり求められなくなる、ひいては作家の取り組むモチベーションの低下につながり、さらには創作されなくなるようなことかとざっくり解釈しています。

これに対する私の接し方としましては大層格好つけた言い方をすると「無理せず参加できる部分だけ乗っかりつつも、5年10年後に見ても朽ちない、むしろ価値が増すもの、あるいはそういったスタイルを目指す」というものでしょうか。私の周りにはおそらくこう言った姿勢の方が多いんだろうなと感じていますが、各々のスピード感の違いからほとんど同じ気持ちなのにぶつかったり摩擦が生じたりするのを見かけますし、さらには自分がそう言う気持ちになってしまうことにも気づくので、メタな認知することで少しはこのようなネガティブな気持ちを緩衝できはしまいかと言う気持ちでございます。

そもそもが私は建築畑の人間でして、日頃建築設計をする際には、住宅の設計が主でありますので、住む人の今と、10年後、30年後のライフスタイルの変化のような時間の経過を考慮に入ることが前提となっておりますのでこういうことに考え至ったのかもしれません。

決して流行を乗りこなすこと、むしろそれを作り出すことを腐しているわけではありません。そのクリエイティブや瞬発力には驚かされるばかりです。

作品の魅力は最大化したいもの

タイトルには消費という言葉の他に、「鮮度」というキーワードも並べております。どちらとも、似たようなアイデアを元に撮られた写真A、Bが、あるタイミングaに発表されるのと、例えばその数ヶ月後のbに発表されるので価値が違うかどうかみたいな評価が付きまとうだろうなという思想をあらわしています。さらには数年後のcから観測したらどうだろう。みたいな。

このことをポジティブに捉えるとaでいち早く発表した作品Aは見る人の目に新しく、魅力を最大化できる可能性が高くなるということが言えるし、ネガティブに捉えるとしばらくして発表されたBはもう二番煎じ、古い、などいわゆる消費されたという状態に陥るんだろうなと考えています。そしてさらにいうとcのタイミングでA,Bの作品を評価した時には、当時の前後関係など、詳細な状況を知らない人からするとほとんど変わらないものとして認識される可能性さえあります。(とはえこだわる人には違いはわかるのでもちろん軽視はできません。僕は結構どうでもいいですよけりゃいいから。)

つまりはcの時点では魅力は平準化されると言える(可能性が高い)。

もちろん扱うもの、ジャンルによってスピード感だったり対立の程度には大きく差があるとは思いますが、私がみる範囲においては基本的にな構造は近しいのではないかなと思っております。

魅力が最大なのは一瞬?

どうですかね、あなたはどう思われますか?ここが分かれ道だと思いますし、どちらがいい悪いと言う話では決してないと思いますが、どっちの良しも悪しも理解しておかないとすり減るのは自分であると思われるので整理してみましょう。

新しいものがちゃんと新しいことに関して、私は大変に価値があると思います。ここを否定するのはかなり無理があるし、その姿勢では新しい価値あるものは産めないんじゃないかとさえ思います。大きかれ小さかれ、前時代の文脈に対して答えを、あるいは問いを立てる作品の誕生の連続が世界を豊かにしてきていると思います。

ex.)歴史的モダニズム建築、サヴォア邸の希少性だって下がる(はず)

例えが建築のお話になってしまって申し訳ないのですが、現代建築の三大巨匠と称される建築家の一人にル・コルビュジエがおりまして、1931年にサヴォア邸という歴史に残るモダニズム建築の傑作を竣工させています。フランスやスイスなど、ヨーロッパで主に活躍したコルビュジエですが、当時は今のようにコンクリートで作る建築の様式というものが真に確立しておらず、歴史的な石を積む構造がまだまだ一般的で素材は違えどどこかでそれをなぞっていたような背景がありました。

その中にあってサヴォア邸というのはコンクリートの構造上の性質をうまく生かし、現在に至るまで様々な建築家にも影響を与えている「近代建築の5原則」という新たな価値観を完璧な形で結実させた傑作であります。(はしょりすぎて怒られるかもしれませんが一応これでいかせてください。)

コルビュジエの思想は後の様々な優秀な建築家にも多大なる影響を与え、さらなる改良を加えられて「近代建築の5原則」のようなものは広く一般に浸透することになったわけです。すると相対的にサヴォワ邸の目新しさによる価値、希少性は下がっているように見えますよね。のちにポストモダンという思想が勃興したことからもある程度真かと思います。(結局モダニズムへの揺り戻しが起こったりもするんですが。)

サヴォア邸は今でも輝きを失っていなかった

ところで10年ほど前に、パリの郊外に位置するポワシー地方まで実物を見に行ったことがあるわけでございます。そこで感じたのは超ざっくりまとめると「めちゃくちゃに美しいモダニズム住宅だな」というものでありました。

これをまた分解していくと、私は21世紀を生きておりますので、モダニズム建築という概念や、もっというと上述の通りポストモダンとかそんなものまで知っている訳なので、そう行った意味では初めて見た!なんだこれは!という驚きに近い感動というのは実はそれほど大きくありませんでした。だって知ってるから。しかし中に入って、写真を撮りながらゆっくりと建築大変を経ていくとド級に美しい訳です。こんなに洗練された空間あるんかいとおしっこちびりそうな感覚になりました。

時間がものの価値を最適化する

つまりは、抜群の鮮度でピチピチしているわけではないけどモノ自体の価値は現代人の私にとっても変わっていない。ということです。ある意味でこれは時間をかけて価値の最適化が行われたとも言えるように思いますし、コルビュジエはそれこそ100年後の未来に響き続ける価値を提唱しようと思考していたはずです。(結構お調子者のイメージもありますので、当時の賞賛もそれなりに楽しんでいただろうなという想像はできますが。)

どの時点での価値を最大化させたいかによる

さて話を身近なところに持って帰ってきたいと思います。要するにその写真のターゲットが誰であるかという視点はよく語られますが、意外とこぼれがちなのが「いつの?」ということなのかもしれません。今日の20代の写真を撮る人なのか、5年後の「今日の20代の写真を撮る人」なのかはたまた15年後の自分なのかで生まれる写真は違くて当たり前です。同じ土俵で語るのが難しいくらい違うと思います。(とはいえ0か100かの話ではもちろんないのであくまで目安かと)

なのでそこを認識できると今時点での5年後の写真に対する評価というものを自分である程度予想して最適化できてる感覚が得られます。本当に的中しているかは結局誰にもわかりませんが。しかし知ってか知らずかそういうことを言いながら尖った、あるいは一見すると一際平凡な写真を撮り続けている方を多く知っていますし、そういう人はもれなく自分の写真を愛している感じを私に伝えてくれます。私はそういう姿勢込みで写真を好きになる傾向もあるようです。(そうですあなたのことです)

思った通りの時期に価値があるかはもうわからない

とはいえそういう写真を撮ること、あるいはテーマを見つけることはそれはそれは容易でなくもはやオリジナルを産むことかもしれません。私などはまだまだ写真を初めてそれほど日が長くないのでちょうどこう言ったことに悩んでいるところです(だからこんな文章を書いていますね、自戒の部分とお節介によるところでしょう)。

ここで思うことはスタイルの向きも不向きも、写真が結局いつどんな価値を持っているかも現時点の私達からは基本的にはどうしても正確にはわからないということです。当然ですが狙う時期が遠ければ遠くなるほど予測の精度は落ちます。なんなら私は今日評価されるものさえわかっていません。(インプットで精度を上げることはもちろん可能でしょうがやっぱり実際撮ってみないことにはわからない部分はでかいなという感じ)

どうせなら好きなもの撮りまくろう

わからないなら興味のあるものを何でも撮ろうかなと思っています。そしてそれは真摯にです。その代わり興味のないものは無理して撮りません。ちょっと激しく申し上げますと、そんなことやってる暇などないからです。写真が下手になるとさえ思っています。私は写真が上手くなりたいというのがかなり上位の欲求ですのでそれに従っています。それがどういうことなのかイマイチわかっていませんが、スタイルやテーマを見つけるところからアウトプットするまで、さらにはその先へ地続きで繋がっていることは確かだと思います。

で、スタイルやテーマは撮ることでしか確立していかないとも思っています。インプットの質を上げることでかなりの確率で入り口までたどり着くスピードは増すと思いますが、確立するのは撮ることによってです。だから興味のあるものは片っ端から撮ってみるのが大事だと思っているのでしょう。そしてそれは真摯にです。

消費されたかは自分次第

世間から見れば流行りは廃りますし、シビアにみるといつか流行っていたそれに金銭が発生しなくなることなんてザラにあります。が自分の興味が有る限りそれの精度を上げていけばいいし、世界のスピードと同じくして自分の興味が薄れるならそれはそれでとても幸せなことだとも思います。本当に自分次第だと思います。楽しく触れ合えればそうすればいいし、そうでなければやめればいいんです。

という、何ともありがちで棘のない結論にしてみましたが節々から思想を感じ取ってもらえるのではないかなと思ってますし、何も感じなくても結構ですございます。笑

How toじゃなくて完全にエッセイな最後になりましたが脳がパンクしそうなのでこれにてお開き。ご意見があればリプでもDMでもいただけたら私もさらに考える機会になるかと思います。もちろん批評もありがたく頂戴します(が優しくしてください)。

あ!スキとフォローもやる気に繋がりますのでぜひ。

ではでは。

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