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私がキャプションをつけない理由が腑に落ちた話しとその後

こんにちはC_FLATです。本日は私個人のSNSに写真を投稿する際のキャプションとの向き合い方についてです。最後話が逸れますが、キャプションを付ける付けないという小さな事柄であっても自分のルーツが垣間見えるし掘り下げると面白いなと思います。いざ。

写真の魅力を最大化するのに言葉を添えることは必要

基本的にはキャプションを付けることには大賛成です。写真表現の範囲にキャプションやステートメントと呼ばれるようなテキストを添えることは入っていると思いますのでこれを否定するつもりは全くありませんし、僕に著しくかけている能力だと思っています。

けど付けない

しかし、私の普段の投稿をご覧になっている方はご存知かと思いますが、私はほとんど写真にテキストを添えません。いい言葉が思いつかねぇんだというのが半分、あえて付けないという意固地が半分です。

この半分の意固地が自分のどういった成分から構成されているのかが判明したんです。

建築は立ち上がったもののみで評価される(場合がほとんど)

何度かお話をしてきていますが、私は普段お仕事で建築設計をしています。建築物の成り立ちとして、契約を結び、料金の一部をいただくタイミングではまだこの世に◯◯荘は存在しません。架空のそれに対してお金を払っていただいていることになります。その時点では図面や契約書の文言等をお施主様に評価されていることになります。

しかし、いざ建築物が竣工してみると不特定多数の人がそこを利用します。その時そこに込められた設計意図やコンセプトを一人一人に説明して回ることはごくごく特殊な用途の建築物を除いてはありえません。つまりは立ち上がったものだけで評価されるということです。

言葉を要さない表現が私の礎になっていた

言葉で説明ができない建築物の利用者がそこで快適に過ごせるようにディテールを詰め切る、空間を作り込むことがいわば私の義務になってさえいるのです。なのでそれで思想が伝わらないなら自分の力不足でしかなく、「実はここはこう考えてこうなっているんですよ...」というのは結構敗北に近い感覚だったりもいたします。

というのが写真を発する時にも感覚として残っているんだろうなということに最近ふと気付いたのでした。

(けどこれは僕以外の人が効果的にキャプションを付ける事に関しては何も言及していませんよ。むしろ尊敬しているくらいです。)

建築の魅力を最大化するのにも言葉を添えることは必要

ここまで考えてもう一度建築に意識を向けてみると、建築においても積極的にテキストを添えていくことも大事なのではないか?ということです。建築設計をしている人の中には職人気質のおじちゃんみたいな人がまだまだかなりのボリュームいる気がしていて、やっぱりそういう方々は黙して語らず。平面図は原動力である。という感じです。それはとても格好いい事であるのですが、もう少し思想を発信して建築士が建物や都市空間に関して啓蒙していく必要もあるのかなと思う今日この頃であります。

(よく諸外国に比べて日本の景観は劣っていると聞くこともありますが結構悲しい気持ちになることがあったりもするんですあれ。笑)

売れっ子建築家は言葉が巧み

とかいって、昔から「建築家」と呼ばれる、あるいは名乗る思想やテキストを操るのが大変上手な人種がいたのも事実であり建築士が書いている建築関連の著書って実はめちゃくちゃ沢山あるのです。

メディアを乗りこなす新人類へ

主な媒体が冊子でありましたが、最近では積極的にSNSやWeb媒体で発信をする建築家も出てきており、やはりよく喋るしそしてそれが上手。

建設業界はどうしても土着するものでオフラインの要素が強く、かなり硬くて体質が古いなとよく実感はするものの、少しずつ軽やかになってきているのかも知れません。

キャプションの話から大きく逸れたような気がいたしますが、要するに自分がいいと思うなら積極的に説明すればいいし、そしてそれは人に響く質の良いものであるべきだということで結論が一致しました。ということかと。ではでは。

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