外山恒一氏のテキストをいったん飲み込んで、それから考えたこと

下のツイートを見て初めて外山氏の存在を認識したのだが、これを機に政治についてめちゃくちゃ考えることになった。

極端な物言いなので、この時点で受け付けない人もいるに違いない。自分はそもそもアナキズムに共感しているので全然理解できる(それが良いこととは限らない)。

外山氏が公開しているテキストは、歴史を学ぶ目的で読んでも大変ためになった。今回読んだのは次の3つである。特に、一番上の「政治活動入門」は中立的に書かれており、教科書的内容ですらある。

政治活動入門
ファシズムとはおおよそこんな思想である
ファシスト党〈我々団〉の基本政策

外山氏はひじょうに理知的な文章を書く。ファシズムという語感だけで簡単に忌避されてしまうのはもったいない(尤も、そういう反応を示す人こそを彼は「Fラン人民」と名付け区別しているわけだが)。そのような、物事を単純矮小化して二項対立に陥れてしまう状況が、現代には蔓延っているので、外山氏のテキストは「毒を以て毒を制す」ような効力を持っている。

云うまでもなくこの監視社会化・警察国家化は、人民の熱狂的支持によって支えられている。自由より安全を望むのは人民の習性であり、これは仕方のないことだ。したがって、民主的な方法によってこの趨勢を覆すことは不可能である。むしろ、民主主義を徹底すればするほど、監視社会化・警察国家化はますます進行するだろう。民主主義を否定するファシズム路線にしか、良識派の展望はありえない所以である。

しかし、しかし、しかし。

問題意識を共有しながらも、それでもやはり、ファシスト党を応援したいとは思えない。この段階において自分と外山氏との違いは何か考えてみると、その答えのヒントがやはり彼のテキストのなかにあった。

政治活動では、状況を改変するという本来の「目的」に貢献するかどうかが最大の問題です。その「演説」が音楽作品や演劇作品としていかに優れていようが、状況の改変に貢献できなければ政治活動としては失敗ですし、逆に音楽作品や演劇作品としてはクズのようなものでも、貢献できれば成功です。

外山氏の活動は徹頭徹尾「政治活動」なのだから、現実に効力を持つ手段でなければならない。だから、期待通りに考えてくれない人民の統治に、ファシスト党という超強力装置を必要とするのである。人民に対する信頼は、そこでは無用となる。

反対に、自分がしたい活動は「芸術活動」であって、観客を信頼することから始まる。制作者が世界に対する問題意識を持っていて、世界を変えたいと思いながら作るとしても、それは砂糖菓子の弾丸である。それは祈りである。世界は変わらないかもしれない。でも、まだ見ぬ誰かの心に革命が起こりますように。

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