現象とコトバの間に
現象と記憶
「現象」と「記憶」は似ているように思います。どちらも「私」の中に立ち現れる、個人的なものです。
ただし、現象は可塑性のある、きわめて刹那的なものです。私の中に立ち現れた現象は、すぐに変質してしまうのです。
現象にはこういった特性があるということを、ぼくらは忘れがちです。すなわち、いつまでも現象は現象としてぼくらの体内に残っているように錯覚してしまっています。
しかし、そうではないのです。
現象を伝えるためにコトバを使う
現象は個人的なものであるため、他人と簡単に共有することができません。ぼくの感じる痛みと、あなたが感じる痛みは、同じものかどうか比べようもないからです。
だからこそ、現象を比較するときには「コトバ」を介しています。言語化しにくい現象をなんとかコトバに表現し、他人に伝えようとしているのです。
ここにひとつの壁があるわけです。
現象とコトバの間に記憶が介在する
このとき、ぼくらは現象から直接的にコトバをつくりだしているわけではありません。現象はすぐに変質してしまうからです。
現象とコトバの間には、必ず記憶を介在させることになります。
つまり、現象→記憶→コトバ という経路をたどっているはずです。
現象は私の中からすぐに消えていきますが、記憶は(認知機能が正常である限り)しばらくの間、私の中に保持されます。
もちろん、時間とともに記憶も変質していくでしょう。おとといの夜に食べたものを思い出すのが困難なように、記憶はだんだん曖昧になっていくものです。
コトバに変換しておくことによって、断片的には時間的変質から免れることができるかもしれません。しかし、変換によって情報が劣化することは避けられません。
すべての現象や記憶をコトバに変換することができないからです。
記憶に対するアプローチ
現象に対する医療のアプローチについてしばらく考えていたのですが、原理的には直接現象にアプローチすることはできないはずです。現象にアプローチしているように感じていたことは、実は記憶に対するアプローチになっていたのではないでしょうか。
これまで本拠地ブログ 地域医療日誌 で取りあげてきた音楽療法。回想法はひとつの例としてわかりやすいかもしれません。これらは記憶に対するアプローチの一種であるとも言えましょう。
フィクションや音楽は、作品を媒介しながら、記憶に働きかけていると考えてみると、思考が少しすっきりします。
こうして考えてみると、癒しのアプローチとは「記憶の書き換え作業」ということになるのかもしれません。
現象について考えるとき、常に参考となる「構造構成主義」のバイブルをまた読み返してみたいと思います。
構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理
いつもありがとうございます。 これからも、どうぞよろしくお願いします。