会社売却とM&Aの物語 第1話

「会社売却とM&Aの物語」をお読みいただく前に
本サイト著者の執筆書籍である「会社売却とバイアウト実務のすべて」では、その第2部に70ページに及ぶ会社売却をするオーナーが主人公の「物語」を収録しました。出版前から様々な方にお読みいただき評判が良かったため、本サイトではこの「物語」とは全く別の主人公、全く別のケースを取り上げて、より小説調にした第2弾としての「会社売却とM&Aの物語」を不定期で掲載することとしました。これを見ていただき、より主人公の心情変化を含めて会社売却の現実を肌で感じていただき、またできれば「楽しんで」お読みいただければと思っています。本物語は本サイト著者である宮崎淳平が監修した上で投稿しています。それではスタートです。

会社売却とM&A ~前夜~
ひぐらしの声を最近聞いていない。地下鉄の駅の階段を上りながら、山田浩平はそんなことを考えている。外は風が凪いでいる。アブラゼミが鳴いている。首筋が汗で濡れていて、山田はハンカチでそれを拭った。都心にはひぐらしはいないのかも知れない。歩きながら、車道の脇に死んだ蝉が転がっているのが見える。仰向けに、羽も脚も閉じて。それがひぐらしかどうか、山田にはわからない。

山田がその店に着いたのは、午後七時を回った頃だった。約束の時間には早かった。少し迷ったが、先に入ることにした。赤坂Bizタワーの足元、飲み屋街の一角、古びた雑居ビルの三階にその店はある。看板といったものは一切なく、存在を知らなければ見つけることは難しいだろう。暗褐色の一枚板の重厚な扉を開ける。微かな柑橘系の香りがした。

店内には他に客はいなかった。その店は山田がたまに顔を出すバーで、静かだが、スノッブ過ぎないところが気に入っていた。内装、バーカウンター、照明、音楽、置いてある酒の種類、バーテンダー、グラスの質といった、バーを構成する要素のどれもが完璧ではなく、しかし高い水準でまとまっている。シャイとか、謙虚といった印象を受ける。それらは意図的なものだろうと思うが、オーナーの趣味か、戦略的なものかはわからない。いつか聞いてみようとも思うのだが、何となく聞けずにいる。

カウンターに座る。氷を砕いていた若いバーテンダーが笑顔で会釈する。その笑顔は自然で、かつ程よく抑制されたものだった。適切な距離感が心地よかった。山田はジントニックを頼んだ。

山田は会社を経営している。元々山田は複数のWEBメディアを運営するIT企業に新卒で入社し、七年程務めた後、友人と共に創業した。同様にWEBメディア運営を主要事業とした。どうしても社長になりたかった、というわけではなかった。どちらかといえば趣味というか、気の合う友人たちと始めた、美容系クリニックへユーザーの送客を行うメディアの評判が思いの外よかったために、周囲から促される形で法人化した。

この業界は業者同士の競争が激しく、顧客はどこも集客に困っていた。当然ながら、大手企業も同様にメディアを持ってはいたが、例えばネイルサロン、脱毛、美容整形、付け睫毛、といった、サービスごとに特化したメディアは少なかったこと、地域性があり、それを踏まえて早くからSEO施策に注力したことが奏功し、ここ二年程は急激に成長を遂げていた。初年度の売上高は数百万円程度だったが、直近では売上高八億円、営業利益二億円程となっている。

山田は、前職では営業部の出だが、人員が足りていなかったこともあり、いわゆる何でも屋のような立ち位置となった。その御蔭でノウハウを得ることができた。そのノウハウを活かし何とか運よくやって来れた、山田自身はそう考えている。元より自分の能力に自信があるわけでもなく、強い意志があって起業したわけでもない。世界を変えたい、そんな遠大なビジョンを掲げ起業する若い世代のことを、山田は羨ましくも思っている。世界が変わればいい、もっと良くなればいい。それは理解できるのだが、変わるべき世界から変わった後の世界への道筋の中で、山田は自分がどのようなポジションを取ればいいのか、何ができるのか、わからなかった。

日々の業務がある。社員も多いわけではないが、雇用している。中には結婚している社員もいる。山田が運営するウェブメディアを利用するユーザーの六割が自然検索による流入だが、その検索エンジンの仕様が変われば、業績が著しく下がる可能性は常にある。朝までどころか、終電まで働くことも最近は殆どないが、いつも、言いようのない不安がある。多くの経営者は同じような不安を持っているだろう、それもわかっている。その不安を振り払うために業務に取り組んでいるつもりでいて、

しかし、何か大切なことを先送りにしているような、そんな気がしている。別種のクリニックに特化したメディアを立ち上げる、既存のメディアの改修――例えば、SEOを意識したコラム記事の拡充、デザインのリニューアルなど、成長の余地はまだある。顧問税理士は、雑談の中ではあれど、IPOも意識したほうがいいかも知れない、そんなことを言っていた。山田自身、IPOの準備を進めるべきなのかもしれないとは考えていた。IPO――まさか自分が上場を目指すことになるとは、少し前までは考えられなかった。それは、喜ぶべきことではあるのだが。

何かが引っ掛かっていた。なぜだか心が動かない。本当にそれでいいのだろうか、という迷いが拭えない。今の生活に大きな不満があるわけではない。挑戦心が萎えてしまったわけではない。そうではないのだが。二十代の頃には感じなかった、憂鬱、とでも呼ぶべきものに心が覆われている。一時の気分の浮き沈みではない。もっと深く、暗い、真黒の夜や海のような何か。その何かに捕らわれている、山田はそう感じている。世界が変わればいい、もっと良くなればいい。しかし、俺は何をすべきなのだろうか。

「浩平には向いてないよ、ビジネスなんて。」

いつだったか、そんなことを言われた。以前、一緒に暮らしていた女だった。山田が二十代半ばの頃から、一年程その関係は続いた。山田と同じ歳の女。そう言われた時の状況を、山田はもう思い出すことができない。朝だったのか、夜だったのか。自宅のベッドで寝ていた時か、近所のスーパーで夕飯の食材を買いに出た時か。彼女は笑っていただろうか、それとも悲しい顔をしていたのだろうか。ただ、はっきりと思い出すことができるのは、彼女の言葉に何も答えられなかったこと。一年に数度、山田は彼女のことを思い出す。

ジントニックの氷が融け、音を立てた。小さな鈴のような音だった。どこにあるのかわからないスピーカーからピアノの独奏曲が流れている。他の客の静かな談笑が聞こえる。そしてそれらを、山田ははっきりと意識できていない。バーテンダーの背後にある、琥珀色の液体に満たされたボトルを眺めている。暖色の淡い照明を反射して、ボトルの列は穏やかな湖面のように光っている。

「なにがしたいの?浩平はさ。」

女はオーストラリアの大学に入り直し、学位を得て、ソーシャルワーカーになりたいのだと言っていた。ソーシャルワーカーがどんな職業なのか、その時、山田は知らなかった。人を助ける仕事だ。彼女はそう言っていた。貧困や虐待、そういった状況に置かれた人を助けるのだ、そう聞いた。素敵な仕事だと思った。彼女は学費を稼ぐために、夜の銀座で働いていた。彼女は両親と絶縁していた。酒に酔って明け方に帰って来る女を見ているのが辛かった。いや、嘘だ。山田は気付いている。本当は彼女ではなく、彼女に対して何もできない自分に気付かされる、それが辛かっただけだ。彼女のためではなく、彼女に映り込んだ無力な自分のために苦しんでいた。鏡に映る自分の醜さに傷付くのと同じだと思った。二十代の何一つ取柄のないサラリーマンが、人ひとりを海外の大学に行かせる金をすぐに用意できるはずがない。彼女もわかっていたはずだ。それでも一緒にいた。自分が起業するとは思いもしていなかった。このまま一緒にいられるとも、思ってはいなかった。世界が変わればいい。もっと良くなればいい。しかし、俺は、何も変えることができない。人ひとり救えない。長い間、そう思っていた。

女は、銀座の客に金を工面してもらい、オーストラリアへ渡った。人づてに、オーストラリアで暮らしていると聞いた。彼女は誰かを救っているのだろうか。人を救うとは、どういうことだろうか。働いて、働いて、働いて、働いて、いつしか、考えることを止めていた。女を海外の大学に行かせる金があれば、人を救えるのだろうか。集客に困っているクライアントにユーザーを送客すれば、誰かを救ったことになるのだろうか。法人税を納めれば、誰かを救ったことになるのだろうか。何がしたいのか。女の問いに、山田は今でも答えることができない。出口がない。ここ半年程、山田はそう感じていた。

約束の時間まであと五分。ジントニックの氷はすっかり融けてしまった。

きっかけ。会社売却、M&Aが動き出す ~IPOとの検討~
「待たせて悪かった」

結局、江崎は約束の時間に十分程遅れて来た。

道、混んじゃってさ。真っ白のポロシャツの襟を立てて、そう言う顔は笑っている。会うのは一年振り程になる。元々筋肉質だった江崎の体は一回り大きくなっている。加えてゴルフで真っ黒に焼けた江崎は、店の雰囲気と全く調和していない。山田は思わず笑ってしまった。

「お前、相変わらず青っ白いな」

「江崎さんが黒過ぎるんですよ」

江崎は山田の前職での先輩にあたる。年齢は確か五つか六つ程上だったはずだ。同じ部署で働いたことはないが、良くも悪くも目立っていた江崎のことを、入社当時の山田は一方的に見知っていた。江崎は山田が入社した時点で既に営業部隊のエースだった。日常的な接点はほぼなかったはずだが、入社して二、三年が経った頃には、全社的なイベントや部署を横断した飲み会の場で、何故か山田は江崎によく話しかけられるようになっていた。

江崎は営業的な成果に加え、様々な逸話を残している。それらは山田が起業する直前まで口伝のように語られていた。終電までオフィスで働いた後、終電を逃した女性をナンパし、一夜を共にしそのまま寝ないで出社した、とか、酔っぱらったままオフィスで部下数名とエアガンを撃ち合い三台のPCモニターを破壊し、デスクを飛び越えようとして一人で転んで前歯とアバラを二本ずつ折った、とか、江崎の昇進を祝う飲み会の翌日、歌舞伎町のゴミ置き場で寝ていたところを警察に保護された、とか、真夏に四日泊まり込みで風呂に入らず働き続け隣のデスクの女子社員が江崎の体臭のせいで泣きながら営業電話を掛けていた、とか、とかそういった類のもので、そしてそれらは誇張のない事実らしかった。山田は、江崎が最初から自分と全く異なるタイプだと感じていた。江崎にまつわるエピソードを耳にする度、なぜか山田は、二日ぶりに風呂に入ったときのような爽快感を感じていた。江崎さんにはかなわないですよ、山田は江崎のことを思い出す度に、そう心の中で呟いていた。

「江崎さん」

「あ?」

「すね毛、どこ行っちゃったんですか」

「お前のサイト使って脱毛したんだよ」

江崎の七分丈のジーンズから見える足首。そこにあったはずの体毛が無くなっている。山田は普段、冗談を言うタイプではない。子供の頃から、周囲から「大人しい奴」と評価されていることは自分でも認識している。江崎と一緒にいる時、まるで自分が別の誰かになったように錯覚することがある。江崎のようになれるわけでも、なりたいわけでもないが、ただ、心地が良いのは確かだった。そうした人間関係は、山田にとっては希少なものだった。山田は、陰鬱な気分が少しだけ晴れていくのを感じている。

二週間ほど前、突然、江崎から電話が掛かってきた。特に変わった様子もなく、久し振りの食事かゴルフの誘いかと思った。

「会社を売ったんで、時間ができたんだよ」

昔、何度も江崎に聞かされた「彼女にフラちゃってさ」という調子で江崎が話したため、山田は最初、何のことかわからなかった。外車の販売でも始めたのかと思ったが、数分のやり取りの後、江崎が創業した会社の株式を売却したということが理解できた。電話が切れた後、江崎からFacebookメッセンジャーで画像が送られてきた。それは江崎のものと思われる預金通帳の写真で、スマートフォンの画面には山田の見たことのない桁の数字が並んでいた。江崎は経営していた会社を五十億円で売却したらしい。江崎さんにはかなわないですよ。山田はスマートフォンに向かって、笑いながらそう呟いた。

江崎が縦長のグラスでビールを飲んでいる。グラスをジョッキに替えればテレビコマーシャルにそのまま使えそうだ。注文した江崎は、ビールの銘柄を尋ねられ「なんでもいい」と答え、若いバーテンダーを困らせていた。山田がバドワイザーを二つ注文した。

「会社、うまくいってるみたいだな」

「まあ、伸びてはいます。ただ……」

「上場するかって話だったな。そこまでは聞いたよ」

江崎は煙草に火を点けた。山田は煙草を吸わない。若いバーテンダーが灰皿を静かにカウンターに置いた。

「ご存知の通りで、うちは設備投資が、言ってしまえば要らないじゃないですか。それにそこまで人手もかからない」

実際、山田は営業活動には注力をしていなかった。問い合わせの数も順調に伸びており、その必要性をあまり感じていなかった。空いた時間に電話営業を行ってはいるが、自然検索によるユーザーの流入、広告出稿――主に検索サイトへの広告出稿による集客、ユニークユーザー数の成長推移を考えると、多数の営業人員を抱えてまでクライアント数を増やす場面ではないと判断していた。確かにクライアントが増えれば増えるほど、メディアのページ数も、ユーザーの選択肢も増加し、結果としてメディアの価値も上昇していく。とはいえ、自然に流入するユーザーで賄えない程にクライアント数を増やしてしまえば、広告宣伝費をさらに投下し、ユーザーを呼び込む必要がある。山田もある程度の広告運用スキルは持ってはいるものの、IPOを目指すか否かという重要な意思決定においては自信の持てる程のものではなかった。

「今の事業は伸びてはいて、将来的な展望もないわけではないんですが、とはいえ、将来的な自分の人生を考えたときにこのままIPOするのかM&Aで会社売却するのかというのを真剣に考え始めたんですよね」

「まあ、確かにWEBメディア運営ってだけだと、既に上場している会社もあるしあんまりバリュエーションは付かないかもしれないよなあ。新規事業とかやらないの?」

「正直、悩んでいる傍らで今の事業を伸ばし続けたいとも思っていて。パッとは浮かばないですね」

「今って営業利益どれくらいだっけ」

「二億程度です」

江崎は唸りながら天井を見上げている。煙草を切れ目なく吸い続けている。山田は漂う紫煙が宙に溶けていくのを眺めている。

「それなら上場は狙える範囲だろうけど。山田って、これから先、何がしたいの?」

どうやら俺は、この問いかけから逃れることはできないらしい。山田はそう思った。

「結局、それ次第だよな。リスクを取り続けて、これからもどんどん事業拡大をしていきたい、とかだったら、IPOだよな。成長する大きな絵が描けてるなら、資金調達して実現すればいいだけだから」

「江崎さんは、迷わなかったんですか?」

「俺はさあ」

江崎はビールを一口飲んだ。バーテンダーが灰皿を取り替える。

「自由になりたかったんだよ」

江崎らしいと思った。

「上場もまあ、悪くないな、とは思ったんだけど。考えたよ。俺ってそんな器かって。好きに生きてきて、今さら株主への説明責任が、とか、事故が起きたらまずいから、取締役と一緒の飛行機に乗らないように言われる、とかいろいろ聞くじゃん。縛られたくないんだ。」

上場企業の社長がどんな生活をするのか、どのような思考なのか、山田にはわからない。

「仮にやりたい事業があってもさ、始めにくくなるしな。M&A、会社を売却すれば、一度イグジットしたって実績が残って、ある程度の金も個人で手に入って、しかも時間もできるよ。ある程度の金があれば、新しくビジネスを始めたいときに始められるし、銀行からも借入しやすくなるだろ、でかい金額。あと、アメリカで会社を売却して、その金で世界中バックパッカーとして旅行して、第三国でベンチャーキャピタルを立ち上げたってヤツもいるらしいし、面白そうだろ?俺は多分、新しい何かを常にやっていたいんだよ」

イグジット――最近は経済紙やインターネット上の記事でもよく目にする言葉だ。起業家はIPOか会社売却という出口を目指すべき、というような文脈で使われているのを目にする。イグジットという言葉そのものに違和感があるわけではない。ただ、妙に頭に残っている。

イグジット。出口。女の声が聞こえる。何がしたいの?何になるの?俺は何がしたくて、今は何ができるのか。人を救う、とはどういうことか。出口。俺は俺の出口を見つけられるだろうか。

「あとは、上場するならその時のマーケットの状況にもよるよね。市場が良くて、上場時点でその会社の長期的な成長が見込めるなら、って、アドバイザーに言われたよ。あ、M&Aのアドバイザーで、いろいろ売却の件で世話になったんだけど。すごい良い感じの人達でさ。お前、一度会って話した方が、いいよ。結構IT関連にも強いアドバイザーなんだけど、上場するかどうかって内容でも、役に立つ話はしてくれると思う」

ともかく、そのアドバイザーに会って話そう、山田はそう思った。

「それに上場してたらさ」

江崎の声に山田は意識を戻した。江崎はこちらを見ていない。江崎は山田ではなく、ウィスキーボトルの棚の向こうにいる誰かに話しているようだ。

「子どもとの旅行とかもたくさん行けなくね?」

山田は思わず吹き出して、バーテンダーがおしぼりを寄越した。バーテンダーの頬が緩んでいる。江崎さん、そんなキャラじゃなかったじゃないですか。咽てしまって言うことができない。子どもがいたとは聞いていなかった。

「いや、行けないってわけではないんだろうけど、もっともっと忙しくなったらどうしようかなとは思うよね。一歳なんだけど、可愛いんだよ。これが」

江崎が真っ黒な顔をくしゃくしゃにして笑っている。スマートフォンに記録された写真を、頼みもしないのに山田に見せる。

「確かに可愛いですね」

江崎さんに似なくてよかったですね、とは言わなかった。

日付の変わる時間になり、店内の客はまばらだ。江崎は煙草を吸い続け、山田は小さく聞こえるピアノの音を聞いていた。心地の良い沈黙、意外とこうした時間が持てる関係性は少ないように思う。

「そういえば聞いたことなかったんですけど」

「ああ」

江崎は聞いているのか聞いていないのか、けだるげな声だ。

「何で僕に良くしてくれたんですか」

「山田さ、独立前、よく上司に刃向かってたろ」

山田は、自分が納得しなければ集中して物事を進められないタイプだと自分を認識している。刃向かうというより、横から指示を受けてもそれに対応できなかった、という方が正しいと思っている。ある側面から見れば、それは「愚鈍」と思われても仕方がないとわかってはいるものの、なかなか変えることができなかった。

「俺と似てんなあ、って思って」

江崎が煙草の火を揉み消しながら、言った。

店を出たのは午前一時前だった。別れた直後、江崎からFacebookメッセンジャーで連絡が来た。山田と江崎の話したM&Aアドバイザーとの三人のグループが作られ、江崎から「後は任せた!(^^)」と雑なメッセージを送りつけられていた。すぐにアドバイザーから返信があり、タクシーを拾う前に日程調整が終わった。十日後、六本木にあるアドバイザーのオフィスで会うことになった。

「売却か」

山田は呟いた。蝉が鳴いているのが聞こえる。街灯の傘の中で、蛾が飛び回っている。貝殻の擦れるような音がしている。光が消えるまで、蛾は傘の中で羽ばたき続けるのだろうか。先のことは何もわからない。結論が出たわけでもない。俺はイグジットを、出口を見つけられるだろうか?何かが変わったわけではないが、誰かに置いて行かれてしまうような、そんな気分が少しだけ軽くなった。

山田は走って来るタクシーに向かって右手を挙げた。タクシーが減速し始めた。手を挙げた先に白く薄い光が見える。街灯ではなかった。月だ。爪跡のような形の三日月。タクシーが停まり、ドアが開く音が聞こえてもまだ、山田は空を見上げていた。タクシーに乗り込み、初老の運転手に行き先を告げる。爪跡から漏れる微かな光が、いつまでも視界に残っていた。

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