「手」の魅力

私は手が好きだ。決して吉良吉影的な手を切りたくなるものではなく、所謂フェティシズムとして、私は手が好きだ。ちょっと最近、気分が荒むことが多かったので、私なりに手の魅力を語っていこうと思う。
雑然とした文章になること間違いなしだが、まあどうにか耐えて読んでくれ。

○手というパーツが人体にとってどういうものなのか

記事サムネをご覧いただきたい。
これはネットでフリー素材として拾ってきた、「ホムンクルス人形」が画像サイズの都合上切れてしまったものなのだが、この人形は人間の感覚の内、どこに神経が多く入っているかというものを示しているものである。神経が多く通っているところが大きく描かれている。全体像は各々検索してみてくれ。
さて、画像を見てもらえれば分かると思うが、顔と手がとりわけ多く描かれている。これはすなわち、人間の神経の多くが手の中を通っているということである。神経が多く通っているということは、人は手を通して多くの情報を得るのである。裏を返せば、手を見ればその人は「手を通じて外界の情報をどのように解釈したのか」ということを知れるのだ。ちょっと過激目の恋愛漫画で、受けの口に手を突っ込んだ攻めが、思わず身震いしてしまう描写が入れられることがあるが、これは受けの口という、神秘的な鍾乳洞のような世界を手を通じて感じ、そこに言われようのない快感を覚えていることに外ならないのである。足でも感じることができる気がしなくもないが、手の方が操作性が高い。手の方が、受けの口という快楽に満ちたブラックボックスを隅から隅まで体感できるのである。これは、手だからこそできる。きっとそうだ。
もう一つ例をあげよう。ここで取りあげるのは手をつなぐという行為である。我々の世界では、普通に手をつなぐものと、ちょっと親密な感じが醸し出される、手を絡めてつなぐもの、といった2種類の手のつなぎ方があることは想像に難くないだろう。手を絡めて繋ぐ方が、手と手が触れあっている表面積が多くなることを是非、自分の両手、あるいは親密な誰かとざっくりとでいいから見てみてほしい。先に述べたとおり、手は神経が多く通っているので、表面に多く触れる方が、より多くのことを感じられるのである。そして、手というものは我々に対し、「手の持ち主がどの様に世界を解釈しようとしているか」ということを示していることも先に述べた。これらはすなわち、手を絡めて手をつなぐという行為をしようとすることは、「より多くその人を世界の中で感じていたい」という、純情ともいえる欲求の表れに相当する。故に、我々はこのつなぎ方に「恋人つなぎ」などというけったいな名前を付け、これを仲睦まじい様子の代名詞としているのである。

要するに、手というものは顔同様、その人が世界に対してどういう解釈をし、どう思ったかが出てくる部分なのである。

じゃあ、顔(もっと言うと目とか鼻とか)と何が違うんだよ、って思う人がいるかもしれない。これはもう簡単である。手というものは顔に比べてはるかに可動範囲が広いのである。だからこそ、手を動かした先を見ればその人の欲求が透けて見える。ぶっちゃけ人情ものとかだったら手だけ描いてりゃ7割は描写としていける、と思う。マジで。

○手は人生が出る

さて、以上を踏まえてそれを積分の計算の如く、生まれたときから今の今までを「∫」で囲ってあげよう。そうすると、あら不思議、その人の人生になるではございませんか。そう、手がその時々のその人の考えが出てくるパーツであるからにして、それを積み重ねることで、その手には皺や傷、肌の質感、などなど様々な面で手の持ち主の人生に思いをはせることができるのである。ジョジョネタをこするようで申し訳ないが、ヘブンズドアで捲れるべきは、顔ではなく手なのである。流石に言い過ぎたくらいだが、それくらい手には人の重みが出るのである。お年を召した方で、手がツルッツルな人居る?いないでしょ?そういうことよ。手が滅茶苦茶綺麗な人見たときはテンション上がるよね。

○まとめ

こんなことを書いている俺の手はスケベさが積み重なった手。
要はそんなこと。
絵を描くときとかも俺は手にこだわって書きたい。
手は、人そのもなのである。
手に、栄光あれ。

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