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コンテンツと化した社会

こんばんは。早いもので、もう1月も終わりソウデスネ。早い

普段あまり社会に対して何か思ったところで表明しないようにしているのですが、ちょっと最近、社会が不安定になりつつある気がし、なんでそんな風になりつつあるのか、というものにくだらないながら、考えが及んでしまって、色々と吐き出さないとやってられなくなってしまったので、急いでキーボードを叩いている次第です。ほとんど戯言に近いので、読んだところで何を思うでもないし、一瞥してブラウザバックしてもらうのもいいでしょう。

なお、今回の記事は
あくまでも私の私見をモリモリに盛り込んだ記事であり、特段何かに対し、決めつけるような意図は一切ございません


大事なことでもう一回


あくまでも私の私見をモリモリに盛り込んだ記事であり、特段何かに対し、決めつけるような意図は一切ございません

○社会の変化

皆様も一度は耳にしたことがあるでしょう、今の社会は「情報化社会」になりつつある、ということを。端的に言うと、日本に限った話で言えば、この情報化に民衆の精神性が追い付かなくなってしまっているという風に私は感じてしまいます。
私自身、歴史には詳しくないため、違うところがあると思いますが、古き時代の社会の多くは「曖昧さ」というものを多量に含んでいる社会だったと思います。例えば、地域住民同士で祭りを運営したり、商店街のイベントを開いたりするなど、そこには「誰々が運営の負担を担う」ということはほとんどなく「自治会の面々で担う」といった、組織としてその負担を賄うといった形で、例えばそこに賃金などといった、細かい取り決めは存在しなかったはずです。知らんけど。
しかし、今やマイナンバーカードを始めとし、我々は身の回りのことの多くを情報化し、それを基に物事を判断するようになったのではないでしょうか。例えば、お昼にご飯を食べるとなったとき、店を調べ、店の評判を星の数で見たり、混雑する時間帯を見てその店に行くかを決めるといったこと等をやったことのある人は多いのではないでしょうか。私はこうした点なども含めて、社会の情報化(ここでは「コンテンツ化」が同様の意味を持つとしています)情報化社会がどういった過程を通じて成立したかということについては様々な点で語られることであると思いますが、SNSをはじめとするデジタルコンテンツとして、様々な物が駆け巡るようになったと思います。
こうしたコンテンツ化の加速に伴って、様々なものが情報化されるようになりました。例えば、一度、有名なアーティストが新曲をアップロードすれば、「Aの曲」として瞬く間に拡散されるだけでなく、即座に「○○コードが所定の順番で構成された曲」という情報も、「ギターのTAB譜はこんな感じで表される曲」という情報も、「誰かが歌詞を見て『こういう風』に感じたと言われる曲」という情報も、とにかく曲そのものを巡る情報が、大量に流れることになってると思います。音楽曲、を例にして続けると最近では「一般的に『売れる曲』となる曲にはこういう共通点がある、そこさえ抑えれば君もいい曲が作れる!」といった情報もひとたび検索すれば出てくる状況となっています。このように、情報化の進み具合は、日本の音楽市場を見てもらっても明らかなのではないでしょうか。絵(イラスト)の分野でも一緒です。pixivとか見てもらえればあっこらへんは明らかだと思います。
要するに、今の社会は個人さえもともすれば情報に変換されるような社会となっているのです。

○「美」にすらおよぶコンテンツ化

さて、あらゆるもののコンテンツ化が進み、全てが情報化されるような社会になったことで何が起こっているのでしょうか。この問いに対する私の回答は、「曖昧さ」の入る余地が無くなっている、というものです。同じ例を何度もこすってしまってしまうのは恐縮なのですが、曲で述べるとしばしば「あの人にしか出せない歌声」というものが従来言われてたことがあることがあるかと思います。極端な例で申し訳ないのですが、それはいまや「あの人は25オクターブも声域がある。それはほとんどの人が持てるようなものでなく、あの人にしか出せない」ということに分解されやすくなったと思います。つまり、人としてではなく、「25オクターブ出る」ことで一つの尺度となってしまっているわけです。先ほどから、音楽の例をしつこく出していますが、これは元来、芸術の分野、もっと言うと「美」というものは、もっともこうした「情報化」というものから遠ざかっているようなものであり、(自然風景などを見た際にふと感じる「美しさ」というものに対し、我々は時に何故美しいのかということに対し、答えに窮するものであったでしょう)そうした「美」という、人の感性に委ねられるようなことでさえ、「美しく感じる情報」として細分化されるようになってしまっているほど、情報化が進んでしまっているからです。我々は既に、全てを言語化し情報にしようとしてしまっている流れを取ってしまっているのです。
それ故に、音楽はストリーミングサイトで目まぐるしくトレンドが変わってしまい、インスタグラムでも映えの流行は目まぐるしく変わってしまい、YouTubeでの流行りも目まぐるしく…あげだすときりがありません。情報化し、処理されるようになり、情報として扱われるようになることで、情報の積み重ねの一端でしかなくなり、心に残りづらくなってしまう、そんなことを私は感じてしまいます。

○「曖昧さ」

さて、再三にわたり、「情報化」により「曖昧さ」というものが失われつつあることを言ってきました。これについてもう少し説明しようと思います。
「曖昧さ」というものは嚙み砕いて言うと「余裕」や「多様性」といったものになるかと思います。今度は絵で例えてみると、絵というものはしばしば「何を描いたのか」という解釈論争のようなものを引き起こすことがあるかと思います。これは偏に、絵の曖昧さに由来するものであり、絵自体は一つしかないですが、そこに確かに曖昧さが存在するが故に、多様な解釈を生み出す、ということがそこで起こっているからです。
従って情報化に伴って、これらの曖昧さが失われるということは、こうした解釈の余地を残しづらくなっていくことになりうるのではないだろうか、と極端ですが思ってしまうことがあります。
実際、情報で表されないものは、扱われないということがしばし発生しているのではないでしょうか。

○最近の社会を見て

所謂無敵の人が、辛い事件を起こした、という情報が広く走る昨今、私はこうした曖昧さの消失が、その一端を担っているのではないだろうかと思います。これは本当に邪推ですし、妄想癖はなはだしいのですが、情報化されていく中で「社会」というフィルターから抜け落ちたと、判断を下されているような状況に、陥ったと感じられるような人が増えているのではないかと思います。曖昧さが無くなっていることによって、こうした1か0かで測られる状況になっていることで、もはや存在していないに等しくなってしまった人が、存在したという事実を残すためそうした行動を起こしてしまっているかのようにさえ感じてしまいます。
じゃあ、どうしろって言うねん、という話も出るでしょう。私自身、どうにかこの社会を、揉まれながら生きていると思っているため、そういう事件を良しとする気は一切ございません。他人を傷つけて得られる社会へのメッセージなど、ひとたび傷つけられる側と傷つける側で立場が変われば、逆転するような微塵も有効性に欠けるものです。

私は神ではないので、「あくまでも私はこうする」という視点でしか話しません。私はこの問いに対して「少しでも話を聞く」ということしかしませんし、それが私のできる最大限のことだと思っています。他人の辛さに耳を傾け、人によって辛さの度合いの違いを感じ、他人の辛さに思いをはせる、これ位しかできないと思います。それに近い体験をしたいのであれば、小説なり日記を読みましょう。僕はこうするくらいしかできない。

○最後に

今や誰しも加害者になりうるようになってしまっていますし、誰しも被害者になりうるようになっているくらい、曖昧さを意識できなくなるくらいになっています。「分からないから考えない」のではなく「分からないけれど確かにそこにあるんだな」と言うような意識を持ち、表立って何かできるわけではないですが、少しでも「人」として振舞うことを忘れずに振舞いたい次第です。

色々まとまってないし、その場のノリで打っているため、物凄く読みづらい文章を読んでくださりありがとうございました。

この文章も「3574文字の文章データ」として消費されるのだろうなと思い、結びとします。


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