仏像と私~私の好きな仏像編①~

長々と4回にわたりお送りした出会い編。

今回からは、私の好きな仏像たち、そしてまだ訪ねられてはいないのですが、生きている間にぜひともお会いしたい憧れの仏像たちを、少しずつ紹介していきたいと思います。

今回ご紹介するのは…、広隆寺「弥勒菩薩半跏思惟像」です。

ちょっと王道ではありますが💦

1、広隆寺「弥勒菩薩半跏思惟像」って?
2、なぜこの仏様なの?
3、そんなわけで、ご対面
4、出会いを終えて


1、広隆寺「弥勒菩薩半跏思惟像」って?

まず「広隆寺」とは、いったいどんなお寺なのか。広隆寺は、推古天皇の時代、渡来人・秦河勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子から授けられた仏像をお祀りするため、603年(推古11年)に建立したと伝わる京都最古のお寺です。※説明はかなり省略しています

所在地は京都市右京区太秦。時代劇の撮影などで有名な東映の撮影所や東映太秦映画村などがすぐ近くにありますが、中心部から少しだけ外れているせいか閑静な場所で、楼門(入り口)のすぐ前を京福嵐山本線(通称「嵐電」)が走ってはいますが、わりとゆったりとした空気に包まれています。別名「太秦広隆寺」。

広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」といえば「国宝(彫刻の部)第一号指定」ということでも知られていて、日本史の教科書によく掲載されていたので、写真を見たことがある人も多いのではないでしょうか(今の教科書にも載っているんでしょうかね?)。

実は広隆寺には、二体の弥勒菩薩像があるって知っていましたか??

一体目は「宝冠弥勒」。

画像1

こちらが「国宝指定第一号」で、聖徳太子が秦河勝に下賜した仏像と伝わる作です。いわゆる「アルカイック・スマイル」をたたえた美仏の代表ともいえる仏像で、「美しい仏像」を紹介する映像や本では必ずといっていいほど登場します。右手を軽く頬にふれるかのように添え、思想にふける姿がなんとも優美ですよね。教科書に載っているのはこちらです。

像高は123.3㎝。仏像には珍しくアカマツを素材としており、全体が赤味を帯びているのはそのためなんですね。独特の色味が艶やかさを放っていて、ますますこの像を魅力的に見せているのではないでしょうか。このアカマツ素材の作りが国産ではほぼ見当たらないことから、朝鮮半島由来ではないかと長年言い伝えられてきましたが、一部クスノキで作られた部分があることが近年の研究で分かり、国産の可能性も出てきているようです。

(この像といえば、京都大学生による「指折り事件」でも有名。昭和35年のことで、私は生まれていない時代のことです。気になる方は、ぜひ調べてみてください!)

二体目は「宝髻(ほうけい)弥勒」と呼ばれています。

画像2

別名「泣き弥勒」。たおやかな笑みを浮かべた宝冠弥勒とは打って変わり、顔を伏せ、きゅっと端を下げて結んだ口元がなんとも憂いを帯びています。像高も宝冠弥勒より小さめの約90㎝。素材はクスノキで、飛鳥時代にはよく使用されていた素材であることから、ほぼ国産で間違いないだろうとのことです。

お寺の資料によると、境内にある薬師堂の厨子の中に入れられていたとの記述があり、そのために金箔が残るなど状態を保たれたのではないかと推察されています。

ほかにも最古のお寺らしく非常に宝物の多いお寺ではありますが、やはり広隆寺といえばまずは「弥勒菩薩像」ではないでしょうか。


2、なぜこの仏様なの?

はい、なぜこの仏様にお会いしに行ったかと申しますと。

身もふたもない話ですが、ズバリ!ミーハー心です!(笑)

やはり「弥勒菩薩半跏思惟像」(宝冠の方ですね)といいますと、私が学生の頃なんかは特に、どんな教科書、資料集、図録にもほぼ100%載っているスーパーアイドルですよ。仏像に興味がない人だって、「ああ、あれね」と思い出せるほど!

レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」が再びの脚光を浴びた数年前も、同じく謎めいた微笑「アルカイック・スマイル」の像として注目を浴びましたが。

仏旅の初心者としては、一度は見てみたい!仏像なのです。

それに聖徳太子のファンとしては、太子ゆかりのお寺ゆえに足を運びたいというのもありました。(後述しますが、こちらには「太子十六歳像」という、少年時代の聖徳太子のお姿を写した尊像もあるのです)

太秦という地名もまたロマンを掻き立てます。はるか1400年前に海を渡り、大和の国にさまざまな思想が技術をもたらした渡来人たち。私、渡来人の方々の存在って古代日本の発展に欠かせないものだと思っているんですね。その筆頭、秦氏の氏の長者であったの河勝の、苦難も多かったであろう人生に触れられるような気がしたのです。


3、そんなわけで、ご対面

ということで、やって来ました「広隆寺」。

京都市バスを利用し、四条河原町バス停から11系統というバスに乗って「太秦広隆寺」下車。本当に目の前です。京都駅からJR嵯峨野線で「太秦」下車でも、「嵐電」で「太秦広隆寺前」下車(市バスのバス停とほぼ同じ距離です)でもすぐ。京都らしい市内の風景も眺めながら行けるので、バスが苦手でなければ個人的には市バス利用がおススメです。

バスを降りると、左右を仁王像に守られた堂々たる楼門が参拝者を迎えます。たしか当時は、敷地内はほとんど撮影禁止とあったような気がします。あまり写真に残す文化を持っていなかった私(目と心に焼き付けるからいいのだ!とかっこよさげなことを思っていました)なので、そもそもほどんと無いのですけれど…。

薬師堂や講堂、太秦殿などが立ち並ぶ参道を通り、本堂の「上宮王院太子殿」(上宮王というのは、聖徳太子の別名ですね)へ。現在のご本尊は、秘仏「聖徳太子立像」。年に一度、11月22日だけの特別公開で、私もまだお会いしたことがありません…。資料によると、33歳頃の太子のお姿を写しています。その時代の天皇陛下が即位の大礼でお召しになる黄櫨染の御袍(こうろぜんのごほう)の御束帯をこのお寺に賜り、天皇陛下の御代一代の間、太子像はその御束帯をお召しになるのだそうです。

本堂の参拝を済ませ、お目当ての新霊宝殿へ(当時は拝観料700円でしたが、今は消費税の関係か800円に値上がりしているようですね)。中は薄暗く、ろうそくの灯りで各像を鑑賞するような演出。

「宝冠弥勒」は殿内の中央に安置されています。資料集などで見るたおやかな風情とは異なり、どこまでも深い思想の海に潜っているような横顔が厳かに浮かび上がっています。

お釈迦様の跡を継いで、56億7千万年後にこの世にあらわれ、悟りを開いて衆生を救うという未来の仏「弥勒菩薩」。思惟像は、衆生をどのように救うかを思案しているお姿だと言われていますが、改めてこの広隆寺の半跏思惟像を目の前にすると、まずは人々の罪業を憂い、どう救ったいけばよいか思案に暮れている、ようにも捉えられます。

その思いがより強く表れているのでは、と思うのが、宝冠弥勒のすぐ横に安置されていた「宝髻弥勒」。まさに人々の罪を嘆き、哀れみ、救う手立てを一心に考えておられるお顔なのではないかと感じられます。

二体の弥勒菩薩の思わぬ表情に心奪われた出会いでした。

そして、この新霊宝殿には、ほかにも見どころがたくさん!

前述の「太子十六歳の像」は、角髪(みずら)姿の聖徳太子を写した肖像彫刻です。まだ幼さの残るふっくらとした頬に、並みならぬ智慧を秘めた鋭い眼差しがはっとするほど美しく、思わず見入ってしまいます。

国宝「不空羂索観音立像」は像高303.6㎝と迫力あるお姿。広隆寺は818年(弘仁9年)に最初の火災で全焼していますが、その以前から存在したと伝わる最古級の仏像です。

同じく国宝「千手観音立像」も像高266㎝と巨大仏で、不空羂索観音立像とともに、宝冠弥勒の向かいに安置されていました。

どちらも平安時代初期の作と伝わりますが、人々を教え導く柔和な雰囲気と、修行中の自身を律しているのかやや厳しい面差しが調和しています。

ほかにも講堂のご本尊、国宝「阿弥陀如来坐像」(像高261.5㎝)や十二神将立像(薬師如来の眷属)、重要文化財も「薬師如来立像」( 秘仏で、11月22日のみ御開帳)、「絹本著色准胝仏母図」、「木造虚空蔵菩薩坐像」など目白押しです!

9~10世紀頃にかけて二度も全焼の憂き目に遭い創建当時の建物は残っていませんが、簡素でありながら威厳も併せ持つ広隆寺の建物群もぜひ味わっていただきたいです。


4、出会いを終えて

広隆寺は、厳粛な雰囲気の中で仏像が伝える古代の人々の仏教への憧憬を垣間見ることのできる印象的なお寺でした。

その後はなかなか訪れる機会に恵まれていませんが、仏旅を再開するときには、ぜひ秘仏御開帳に合わせて訪ねたいと思います。

さておススメのお土産ものですが。

「笹屋延秋」さんの「千歳最中」という最中は、ふっくらと形を残して煮上げた小豆の、素材そのもののおいしさを堪能できる逸品です。広隆寺からは徒歩だと10分ほどだと思いますが、あん好きな方はぜひ✨※商品のお写真はお店の公式ホームページをどうぞ。

http://sasaya-enshu.la.coocan.jp/index2.html

ちなみに、このお土産コーナー、和菓子好きということもあり、基本和菓子が多くなる傾向にあることは、ご容赦ください💦

ではでは、次回の「仏像と私」シリーズも、良かったらぜひご覧下さい♪


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