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意味

「自然」という言葉を考えるとどれが自然かよく分からない。なんとなく、人々は「僕は自然が好きだ」と言っている。風と揺れる木々は自然だし太陽や月も自然である。だからそれ以上の説明をしなくても「そうだね、僕も自然が好きだ」と返すことができる。しかし、「自然を指差すこと」ができない。コンピュータをこれだよ、と指差すようにはいかないのだ。それは皆がいう自然とは「自然の意味」であって「物質としての自然」ではないからである。コンピュータもよくよく考えると「物質」としてのコンピュータではなく、「意味」としてのコンピュータを言っている。

日本語で原稿を書いて翻訳を依頼するとき僕が気をつけているのは原稿の単語の後に括弧をつけて(単数)とか(複数)と書くことである。英語では常に単数か複数かを明確にすることを要求される。でも日本語ではそんなこと気にしない。日本人が「人の気配がする」とか「りんごを食べた」と書くとき人は人やリンゴが複数か単数かなど考えないのは「意味」としての人やりんごを語っているからなのだ。

漢字が中国から入ってくるまでの日本語である「大和言葉」は「働き」の言葉だったという。「物質」ではないのだ。僕がここでいう「意味」とはこの「働き」や「関係」のことを言っている。「かく」という大和言葉は漢字が入ってきて「書く」や「欠く」、「描く」、「掻く」になった。「かく」という総合的な意味が分化してしまうことになった。そんなように、日本語の意味は次第に変化していく。「意味」だった概念が次第により具体的な「物質」であるかのように思い込むようになっていったのである。物は意味に本質があり、物質性は仮象なのだ。

近代になって「機能性」を大切にする思想が生まれた。現代ではまた「使用価値」を気にするようにもなった。それらは全て物の「意味」の一部だと言っていいだろう。どこかで「物質」としての物から「意味」としての物に人々の関心は移行しているのだろう。しかし、僕が今主張したいのはこのような小さな「意味の断片」ではなく、物の本質を指摘する「意味」でありたいということである。

龍安寺の石庭は砂の「地」に石の「図」が描かれている。ここでは宇宙の意味を石と砂に象徴化して世界観を表現しているのである。また、ルイス・カーンは意味のデザインをリアライゼーションといい、その後で物質のデザインをすることを主張している。多くの人々が「原型」をデザインの初期段階に考えるのもこの「意味」のデザインである。
今、大切な概念は「物質時代」に「意味」を探ることである。

物学研究会主宰
黒川雅之

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