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反近代

 ポストモダーンが多くの建築家たちによって語られた、あの時代からもう40年ほど経っている。あの時代、イタリアではメンフィスのグループがゲルマンデザインへの反抗であるかのごとく、ラテン的なけたたましい作品を発表して人々を驚かせた。そして、通り過ぎると多くの人々はモダニズムへの反旗を叫ばなくなった。自分はモダニストと開き直る人たちさえ現れるようになった。

 実はいま、建築やデザインの外では近代は激しく崩壊している。遺伝子や生命論、そして、デジタル技術の領域ではその動きは顕著である。それなのに、これらの動きに反して、政治や経済、或いは普通の生活領域では近代思想の影はいまだに色濃い。

バイデン大統領はトランプ政権のあと、自分の姿勢を表明するために「UNITY/統一」を盛んに主張している。「アメリカの統一」を目指したいのだろうけれど、ここでは「DIVERSITY/多様性」をこそ主張すべきところだと思う。統一を主張して、多民族国家を一つにはできない。今日のアメリカは多民族の多様性が創り上げた文化なのだ。多様性を主張してこそ、アメリカの本当の生命的な文化は生まれるのであるし、多様な民族が気持ちを一つにできるのだ。

 現代でも生き続ける近代思想なのだが、1970年の大阪万博での岡本太郎の先見を思い出す。彼は丹下健三に喰いかかっている。「人類の進歩と調和」とは何ごとだというのだ。今でこそ、生物の世界では進歩も進化もないことが明白になっている。遺伝子の天文学的回数の変異と環境への適応よって変わっていくだけなのだ。本当の人類の進歩は存在しないし、調和も単純な調和はもはや存在しない。激しい闘争の上での共存が探られている。

 都市も建築も製品も、今では多くのオープン部品が登場し、その組み合わせで生まれている。建築を例に上げれば、床材は既製品化し窓サッシもカタログから選ぶだけの時代になった。木や竹や土から自然の秩序を守りながら設計し製作した棟梁の時代は信じられないほど遠いところにある。もう20年も前にアメリカでは「現代建築はカタログ建築だ」と揶揄されている。既製品の選択能力とその組み合わせが設計ならそれは設計ではなく、編集というべきだろう。設計もその意味を変えたように、創造という概念もどんどん溶け出している。なにもないところから何かをつくる時代ではなくなった。むしろ、発見こそ創造の意味に該当する概念になっている。先の見えない時代には計画よりアドリブこそが価値を持つようにもなった。

 反近代はもうすっかり進んでいて、取り残されているのは人間の意識だけなのだ。意識の変革こそが求められている。反近代をもう一度、声高に叫びたい。

物学研究会主宰
黒川雅之

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