父、のもとに、帰る

物心ついたときから、私は父に脅え、嫌悪し、散々傷つけられてきた。小学校に上がる前、お前はダウン症の姉の面倒をみるために生んだと言われた。まだうちの景気が良かったころは、可愛がられていた弟は何台もマウンテンバイクを買ってもらっていたけれど私は買ってもらえず、母が父に「許可」をもらって私の自転車代のための短期アルバイトをしてくれた。そういう位置の子供だった。

何度も尊厳を踏みにじられ、脅され、過呼吸を起こすまで罵られ、母方の叔父が統合失調症で祐子の頭がおかしいのはその遺伝だ、と親戚中に言いふらされた。景気が悪くなるにつれて、本の虫だった父は本を読まなくなり、精神状況は悪化していき、それが私に移行された。

逃げるように家を出て、東京を離れ、やっと人並みの生活を送れるようになった。弟も家を出て、母も逃げて、それに姉がついて行き、父は私が生まれ育った団地で一人で暮らすようになった。結婚したことも、子どもが生まれたこともどこにいるかも言わなかった。連絡を絶った。夫はこっそり報告してくれていた。病気が分かった時も、弟は「そりゃストレスだろ」といい、「俺は父親に恨みはないけど、お前が許せないのはよくわかるから」と言って父の面倒ごとはすべて弟がかぶってくれた。祖母の葬式で再会し、孫の画像や動画だけをたまにメールで送るようになった。すっかり小さくなり、あの頃の父とは別の人間のようだった。メールにお互い近況を伝えあう文章は一切なかった。なにか連絡事項を向こうが伝えたい時は、弟から伝言ゲームのようにして伝えられた。スマホを変えて撮った動画がメールで送れるようなサイズではなくなり、数か月放置していた。

年末、弟から電話があった。父がすい臓がんでもうながくない。周りに連絡することは頑なに拒んでいる。俺以外には内緒で、年末年始だけ一時退院するから。

私はスーパーの駐車場で声をあげて泣いた。早く死ね、早く死ね、と思っていたけど、昔の家族のいい思い出だってあふれ出てきて、家族に嫌われ誰もいなくなったあのボロボロの家で、10年以上寂しく暮らして一人死の淵に立っている父のことを思うと、少しでも安らかに幸せに、最期を迎えてほしいと思った。

弟にガリガリになってるから会うの嫌がるかもしれないぞと言われたけど、父に何も知らない体で電話をかけ、「年末年始、帰省ラッシュと逆方向だからチケットとホテルが安くて遊びに行くことになりました。弟におさがりを渡す予定なんで(お嫁さんが妊娠中)都合がつけば是非」と伝えたら、電話の声が少し明るくなった。

父に会う大晦日まで、愛憎の気持ちが処理できず、情緒が不安定になってしまった。ざまあみろ、悲しい、昔あんなことされた、でもこういう楽しい事もあった、辛かったろう、寂しかったろう、憎い、当然の報いだ、会いたくない。疲れた、楽になりたい。

話を聞かされたのがちょうど、「人とは必ず別れがあって、会うたびに見えない数字でカウントダウンされている」というようなことを書いた次の日で、私は何も知らないフリして父の最後の1回に臨むことになった。

目を腫らし、充血させたまま、飛行機に乗った。父は、力を振り絞ってモツの煮込みを作っていると弟から聞かされた。4時間以上灰汁や油を捨てながら作る、父の一番の得意料理だ。もう歩くのもしんどい状態らしいのに。

私は伊吹のいりこと干しエビを買っていって、年越しそばとお雑煮を作ると弟に伝えた。思えば、料理が好きになったのは、父の影響だった。

10年以上帰らなかった家は、まったく変わっていなかった。食器も、カーテンも、棚も、台所も、あの頃のままで、父の孤独な時間だけが古さやほこりや黄ばみとなって積み重なっていた。ごみ屋敷のようになっていたのをリビングだけは弟が片付けてくれてた。骨と皮だけになった父に「体調悪いの?やせたね」とだけ言って、すぐに会話をやめた。私たちは会話らしい会話をしたことがない。何を貶されるか罵られるか分からないのでできるだけ私の「個」を見せないようにしてきたから。父は私のことをほとんど何も知らないのだった。ただ私の方は、子ども好きなこと、娘つまり孫がかわいくて仕方ないことは知っていて、この日は本当に幸せそうだった。私にはそれが分かった。

もう二度と食べられない、父のモツの煮込みは、相変わらず臭みが全くなくて美味しかった。父はいつもの味だろ?と笑った。

私の年越しそばは、出汁が本当に美味しくできたんだけど、用意されていた油揚げ5枚を入れたら途端に油揚げの味になってしまった。明日も集まろう、良いお年をと言ってホテルに帰った。


元旦は、姉も呼んでみることにした。
年越しそばのリベンジで、お昼に雑煮を作った。さらに丁寧に出汁をひいて、用意されていた豚肉も出汁を台無しにする予感がしたので、80度くらいにした酒とお湯にくぐらせて別盛にした。
父は何度も横になっていたけど、皆が食べ終わったころに起きてきて、私の雑煮を少し食べた。特に感想はなかったけど、美味しく作れたのは知ってるから満足だった。

夕方、近所の公園で私たち3姉弟と、弟のお嫁さんと、私の夫と、娘と、ボールで遊んだり、どんぐりを拾ったりして遊んだ。
きゃっきゃワイワイして帰ってきて、娘が父に「どんぐり何個ほしい?」と言って、お土産にたっぷりのどんぐりを渡した。

父はほとんど食事をとらないし、ゼリーのようなものばかりみたいだったから、冷蔵庫の整理のために余った食材できのこ餡を作って、炊飯器で温泉卵を作って、残った蕎麦を茹でて晩御飯を作った。父は横になっていたけど、粘土で遊ぶ娘の声が中心となってわいわいにぎやかだった。

私はその声を聴きながら、ずっと、この瞬間を永遠にしてここで料理をしていたいと思った。来年も、再来年も、ここで、こうやって家族で集まって、そんな未来がほしいと思った。涙をこらえるために口をへの字にして、そんなことを考えていた。

父は私のきのこあんかけ蕎麦は食べられなかったけど、私たちが食べ終わったころに頑張って起きてきて、皆でテレビをみたり、娘のワガママに付き合って笑ったりした。もう帰らなきゃ、がなかなか言えなかった。

帰り、弟にタバコをせびった。弟に車で送ってもらう前に、外で10年以上ぶりのタバコをゆっくり吸って、それから乗り込んだ。なんとか耐えていたけど、ホテルについて、夫が「お義父さん、僕に楽しかったって言ったよ」と言って、そこで父との最後の1回が終わったこと、カウントダウンが0になったことを強く認識してボロボロと泣いた。


昨日からユーミンの「A HAPPY NEW YEAR」をずっと聴いてる。
今年もたくさんいいことが あなたにあるように いつも いつも









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