2005年02月19日 梵天丸の足の裏の伸び過ぎた毛の不安。

仕事開始を目前に控えて体調が万全でないうきちゃんです。

サイトを巡回していて、懐かしい人の笑顔を見た。満面の笑み。うーん。

正誤の絶対的な価値基準が存在し得ないことを並べ立てるのに、実際には便宜的に作られた価値基準が用いられている。両者を主張する存在は結局は同一で、それは遍く個人では無い。そして個人の主義主張としてそんな有り体の矛盾を声高に曝け出す事は無くとも、個人の帰属する社会は平気でその矛盾を曝け出している。果たして個人と社会の性質にどれほどの差があるのか。可不可の話をすれば勿論相違は多けれども、枠の大小に依ってその価値基準が悪であり善であると言うのは如何なものか。

つまりそういった不安だ。

物差しというやつはある共通概念の上では非常に有用だけど、その前提が無ければなんとも不愉快な物である。はてその前提は一体どこで手に入れたものやら?

つまりそういった不安だ。

満面の笑み。
その笑顔を見て心温まる。
その笑顔を見て不安になる。
過去の分岐を辿ればそこには別の可能性があり
それを後悔したり不安に思ったりせずに居ることは困難だ。
だから私はその満面の笑みを見て不安になる。
それは過去以外の過去を
それは現在以外の現在を
来たるべき未来以外の未来を想像するからだ。
そうせずには居られないからだ。

つまりそういった不安だ。

梵天丸の足の裏の匂いを嗅ぐとき、耳の付け根に顔を埋めて柔らかい毛に顔を埋めるとき、そういった全ての類の不安から目を逸らす。遍く暗黙のうちに決められた殆ど全ての事象は、目を逸らすことばかりしていればいいように出来ている。むしろ目を逸らすために出来ているように思える。

不安を逸らすためにある生活。
対峙するための時間。
犬の足の裏の匂い。
対峙するための時間。
私の為の時間。
不安を逸らすためにある生活?
回る時計。

目を逸らせない時計。
目を逸らすための時計。
回らない時計。今だけの時間。
今だけの数字。
目を逸らすための時計。
ディジタルにしたところで回る時計の本質に変化は無い。

だから私は不安だ。

つまり、烏龍茶がなくなってしまったから。
タバコが切れてしまったから。
朝食用に取っておいた食べ物をあっさり食べきってしまったから。

よし、おはよう。
コーヒーを飲もう。

ミッキーの後ろ足の裏の毛が伸びすぎたせいで、階段で足をすべらせてアキレス腱の部分に血豆が出来る事だ。彼の身の安全は常に確保されなければならない。

oh つまり私たちの日常には不安が多すぎるのだ。

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