完全な無

毎日 にっきっき

・今日は長いし構成がツギハギで書いたので意味不明です。

さて、始まりました。毎日日記。本日は「完全な無」としておりますが、一体何を語ろうとしているのでしょうか?

懸命な読者の皆さんなら既に予想は...おっと。
言うまでもありませんでしたね。

そう、完全な無、と言えば

zero.null 

無を情報が存在しない状態と定義するなら、無とは「無」という情報がある時点で、本質的な無では無いのかもしれません。無と言及した時点で、無は消えてしまう。完全な無とは、ナニカ?

あるいはー、無とは詩的な物を指しているのでしょうか?スリーポイントシュートを決めるときの、瞬間の無。あるいはー、唇を重ねる、刹那を切り取った無。

あるいは、四方固めからのコブラツイスト、

粘りに定評のあるバッティング、王政復古の大号令、大政奉還からの原宿いやほい。ぽいぽいぽぽいぴー。


そういえば毎日更新されてるあやまんJAPANのブログのコメント数、先週見たら2コメントでした。

そうー。つまり、私が語らんとする事は。

無。

書いてる途中に何か思い付くかと思ったけど何も思いつかなかったっすね。

うーーん

--------なにも思い浮かばずバスとか乗りながら13時間放置-------------

バスに乗りながら自分のnoteを読み返してたんですが、メチャメチャカロリーが高い。高いですね…すんごい、くどい。

なんで、もしかして「こいつ狂い人」かよ。ってなるので、さっぱり落ち着いて、マジモンのあった事を報告する「日記」でもしようかな。と思った。テイストをいきなりかえていく。

そういえば最近、DTMで音楽も作ってるんですけど、一番気に入ってる奴2つ聞きながら読んであげて下さい

まったり切なくてお気に入り。

・帰省なう。と、リア垢に報告しながら昼行バスに揺られている。誰も聞いていないのに、誰かに言わなきゃいけない気がする。

・僕は鬼のように長距離バスユーザーである。学生でお金がないので、しゃあなしにせまい車内に揺られながら東京から地元への6時間ちょっとをつぶしとります。

・めちゃめちゃお茶碗の蓋みたいなドーム

・高速道路に乗りながら気づいたのだけど、意外と視点が変わって面白い。観覧車の真ん中の高さあたりで走行しているので、いつもより少しだけ町が俯瞰してみえる。

・日本ガイシホール、めちゃめちゃお茶碗みたいでウケた。

・天井をパカっとあけたら、米粒の代わりに観客がめちゃめちゃいる。それを見通した皮肉か?と思った。

・イヤホンをつけながら、バスに揺られているのだけど街中でイヤホンをつけるたびに「聞きたい音楽があるから、じゃなくて、何も聞きたくないからイヤホンをしている」みたいな事を思う。で、たぶんこれは他の人も考えてるだろうから、「思慮あっさ」と思って思考を放置する。

・「何も聞きたくないからイヤホンしてる」とか「好きな人の前だと、どんな女の子もめんどくさくなるんだよ」みたいな唾液でさび付いた中途半端に刺さる名言を出されたり感じるとなんか冷める。なんか後追いっぽくてダサいと思ってしまうので、自分が感じた名言っぽい事は逐一ぐぐる。誰と戦ってるんだ。ちなみに最近検索したのは「千利休 お茶会 茶番だと思ってた」です。0件でした。使いどころは完全に不明である。

・はす向かいのおじさんが手帳型のケースで、2台のiphoneで同時にポケモンgoをしていたので「もしかして、サトシか?」と思った。サトシが実在してるなら、今頃中年で昼行バスに揺られてるんだろうなーと思って、はす向かいのおじさんがサトシだと仮定してバックグラウンドを妄想することで30分くらいつぶれた。

・夕焼け。いまさらながら綺麗である。

・しかし、夕焼けが綺麗なんてことは当然なので、「ほーキレイじゃん」で終わった。それよりも画面中央の飛行機雲が途中で消えている事がなんか気になった。「フォトショップで中途半端にミスって消した」と言われても信じてしまいそうで、写真だとそれがより顕著なので現実の実存を疑った。

・こういう写真を見るとインスタの「オシャレぶるアタシww笑」みたいなインスタやってる人を馬鹿にするネットの浅いdisの匂いが鼻をくすぐる。

・インスタは流行ってすらいなかった5年くらい前からやっていて、なんやかんや昔の彼女に消されてしまったのだが、フツーにご飯の写真とか、夕焼けとか、友達とワイワイやってる写真を友達との身内でタグとかつけてアップしていた。いわゆる「やってる系」のインスタである。

・で、当時何を思って典型的な「やっている系」インスタをやっていたのか振り返ると、インスタをバカにする風潮もなかったので普通に「無」だった。「おしゃれな写真とれて、おもしれー」としか思ってなかった。

・ネットの純粋悪がよくインスタをバカにするけど、典型的なインスタの使い方をしてたにしては、自分は何も考えてなかったな、と思う。よく「自分アピール」だろ。とか言うが、完全に無だったし、たぶん性格としては5年前なら今より性格も終わっていたので僕も内心インスタをバカにするほうだった気がする。

・つまり、ネットの純粋悪はいろいろと勘繰るが、ユーザーは別に何も考えていないので、バット持たない素振り、見たいな意味のなさがある。

・僕は基本的にネットの風潮のマイノリティに意地でもつきたいほうなので、インスタやスタバ、飲み会ワイワイをバカにする風潮が強いからこそ、あえてやるほうがなんかかっこいいな。って思う。

・近年は哲学の堂々巡りの末に「自分が楽しくなきゃ意味ない」「考えたってしゃあない」みたいな中1の頃にクラスのあやまん的女子が言っていた事とまったく同じ結論にたどり着いている。すさまじい哲学の堂々巡りがあったのだが、当時「浅いなー」みたいに思ってた結論に回りまわって自分も行き着くのは皮肉だなー。と思う。

・で、思うんですけど、人生観のアウトプットが同じでもプロセスが違えば人間性ってまったくことなると思うんですよね。中1の頃の女子と同じように今僕は「とりあえず笑って幸せになっと楽しもう!」という結論に至っているが、あの女子はめちゃめちゃ素直で気前のいい、いい子だったが僕は性格が完全に終末している。アウトプットは同じなのに、プロセスが違うからこうなっているのだと思う。こういうのは結構普遍的な現象で、スタバで「ドヤ顔マック」をバカにするネット純粋悪はそういう俯瞰とか評価になって勝った気になるのだけど、アウトプットのみから判断するというのは、本当に検討には不十分なんだな、と最近思います。夕焼けのことから展開なっが。

・岡崎SAの手を引いて誘導されている気ぐるみ。子供がいない気ぐるみって、「きぐるみで視界が見えないから誘導されている」というところが丸見えになってしまい、この人造感が狂気感が増すな、と思って面白くて撮った。

・関係ないけど僕はきぐるみが怖い。おさない頃にディズニーランドに連れて行かれ、ミッキーのきぐるみと無理やり触れ合わせようと両親にきぐるみまでつれてかれたのだが、バチボコに泣いていた覚えがある。今でもちょっと怖い。なんでだろ?

・と、思ったらそういう恐怖症があるらしい。

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B0%97%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%BF%E6%81%90%E6%80%96%E7%97%87&oq=%E6%B0%97%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%BF%E6%81%90%E6%80%96%E7%97%87&aqs=chrome..69i57.3246j0j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8

・なんで怖かったのかわからないが、子供のときから性格狂い子供だったので、無意識に「オトナの作為的な人造感」が怖かったんじゃないかと思う。

・youtubeのコメントで「集合体恐怖症だから怖い」みたいな中高生のコメントがあるんだけど、アレなんなんだろ。なんか恐怖症ってキャラ付けの役割を担ってる気がする。だから言いたくなるのかもしれない。

・キャラ付け、と言えば猫舌も「キャラ付け」として定着している気がする。なんか「猫舌」ってかわいいもん。だから「クソ舌」って名前にしたら誰も自称しないだろうな、と思ったことがある。

・「高所恐怖症」はちょっとかわいいが、「怖がりクソチキン野郎」だったら誰も名乗らないもんね。ルイヴィトンも「ケツ太鼓」だったらブランドにはならないので、名前というのは重要だと改めて思った。

・ぬいぐるみの写真からの結論、そこ???

工事現場の石を粉砕機に運ぶベルトコンベア

・右上から左に石が流されていくのだが、1個の石だけ流れに逆らって逆流しようとしているのが面白くてボーっとみていた。最初は徐々に逆流も順調だったが、周りの石にぶつかって逆流を止め、反抗したものの同じように粉砕機に飲まれていった。

・これを見て、「バンドマンの人生の縮図じゃん」と思った。いずれ人は丸くなるのだ。石に感情移入したので少し悲しかった。

・乗せる写真はもうない。

・基本的に一人でいるときに写真は撮らないことに気づいた。

・僕は写真をどうやら素直でかわいいので、「友達といて楽しいとき」しか写真を撮らないのだと写真フォルダを見て最近思った。数回一人旅とかしたが、温泉や、山の絶景を見たのに写真は皆無である。が、友達とマック行った日の写真はいっぱいあるのに。かわいいじゃん。と思った。

・つまりnoteに乗せるために珍しく一人でいるときに写真を撮ったのだが、「なんか、読んでくれてる人ありとう」という気持ちになった。素直でかわいい奴だと思う。

・性格は終わっているが、普通に友達めっちゃ好きなので、ずいぶん昔に友達とかとの思い出数年分の写真データが消えたことがまだ悲しい。「写真がなくても俺の心の中にあるから、いいのさ…」とかカッコつけたけど、いまだに悲しいのでたくさん写真を撮ろうと思う。

・そういえば、就職活動とかで色んな人と凄まじい速度で出会って軽く話したが、最終面接まで行ってお世話になって仲良くした人事の人とか、説明会で出会って、ワイワイ喋って帰りにご飯食べたりラインした人ときっともう連絡を取らないってのは、なんだか寂しい。たぶん、ビジネス的というか、就職活動の場では当然なんだろうけど、なんか寂しいなー。これを寂しいと思わなくなったら、きっとオトナになった証拠だと思うので覚えておこうと思う。

・名古屋によく遊びに行って思い出が大盛りなので、バスの終着点の名古屋を歩いているとすごくたくさんの事が蘇った。僕は建築を専攻してきたし、都市計画とか好きだったので、街に思い入れがある。

・東京を憧れていたので気に入っているが、たぶん「魅力的な街」というのは「思い出とセットで想起される物」なのだと思った。東京は良い町だが、僕が「東京はエエトコ」と言うのと、ネイティブ江戸リアンが「東京はエエトコ」と言うのでは重みが違うと思った。

・で、いろいろ授業とか、コンペの出展で建築とか街にさまざまな小細工を弄してきたのだが、勿論建築として機能や形、要素デザインは重要で良い建築は良いのだが、結局「思い出」の前にはまったく叶わないのである。

・東京にいた宗教団体の勧誘の人がいたが、東京でも名古屋でも、かわらずに「ひりついた笑顔」だったのがなんだか不気味だった。宗教云々や信じる信じないはどうでもいいのだが、もしも全国の勧誘人を集めて「ひりついた笑顔」だったら怖い。やっぱり僕は人造感が怖いのかもしれない。

・久々の名古屋や地元を「駅の入り口から呼吸の様に吐き出される人々、街の呼吸のようである。その、街の呼吸の中に個人の呼吸があり、人生があるのだ。」とか、さっきガストで飯くってきたヤンキーと地元友達との奴に「東京とここは違う。彼らは、明日何をするかを悩んでいた。今日一日はギャンブルしていてつぶしたようだ。彼らは退屈で悩んでいる。東京では、多忙で悩んでいる人がいる。本当に消耗するのはどっちで、どっちが本当の幸せなんだろうか。」的な事をまぁ思わんでもなかったし、昔は今より思っていたのだが思考が停止した。ガストのソフトクリームが美味かったわ。

・と、いうのも、そういう詩的な事を思慮する前に思考停止するようになったのは、最近「共感に意味があんのか?」と言う事をよく思うようになったからである。

・詩的表現のメリットと言うのは、やはり共感の純度を増すためである事と、自己世界の伝達の純度を上げるためである。「名古屋駅からめっちゃ人出てきてヤベェ」っていうよりは「呼吸のように」という比喩を用いるのは自らの「エモ味」に共感してもらう事と心象風景の伝達。世界観の共感の純度を増すためだと思っている。

・まーためんどくせえ話なってきたな。

・で、最近思うんだけど、「共感」ってそれ自体の効能として薬効があるのかわからなくなってきたのである。どこを見ても「共感でき過ぎるww」みたいなのがあふれてるし。SNSのつながりが深くなったからこそ共感マシンガンが乱射されているのだが、共感って、感情の処方への薬効としては「痛み止め」に近い気がする。なんていうか、感情の根本の解決にはならなくて、そりゃ僕も共感されたら嬉しいっちゃ嬉しいが、安心して停滞できるだけで、共感それ自体に根治の力はなくないですか?今日キングオブコントを見てて爆笑してたら、いろいろどうでも良くなったので、僕は他人の為には共感よりもエンターテイメントが処方されるべきなんじゃないかと思う。

・よく、「悩んでた私を助けた解呪の言葉みたいな物があるが」別に呪いは解かなくてもいいんじゃないだろうか。なんというか、ネットのそんな役に立つ物に自分の悩みが解呪されてしまうというのは、ものすごく怖いことだと思う。人造感があって、論理的で、toggeterやはてな、メディアのコラムを見ていても白黒を付けたがる時代で正論が力を持つ時代である。白黒の物に自分の人間性を解呪されてしまうのはなんだかとても怖い。僕の主張に、何の論理的な正しさもないが、グレーな物や時間に呪いを解かれるほうがよっぽど人間らしい気がするのだ。

・太宰治のやつ

ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

これが

・アドラー心理学を読んだ。アドラーはすごい。人は自らのために生きるべきなのだ。納得した。悩み消えたわ。おっしゃ俺生きるわ

だったらめちゃめちゃ嫌じゃないすか????こっわ。

・でもそれが、当然のように力を増している現代である。あー僕も早く「正常で論理的」になりたいな。

・反論がないなら俺の勝ちだがw?

・もーいい加減疲れた。今日はめちゃくちゃ長く書いたな。と、言うのが今日僕が考えた一日の事なのだが、これって考えすぎなのかな。と思った。今日頭によぎった事の4割くらいを文章化してみたのだが、他の人はどんな事考えてて、僕が考えすぎなのか、そうでもないのか、普段なら言わないような事を疑問の解消がてら書いてみたんすよ。

・もし良かったら、今度「ブル高ちゃんが考えすぎかどうか」を教えてください。

・でも、教えてもらったところで「それはあくまで君がそう感じる事」であって、サンプルとしては少なすぎる。そして、人の思考量を定数化するすべを僕たちは持っていない。だから、仮に誰かが「ブル高は考えすぎだよ」といっても、そこに論理的な正しさは何もなく。言った人の偏見になるわけだけど、どう????どう思う?????

・反論が無いなら、俺の勝ちだがw?

おわり。

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