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俊カフェ界隈の歴史 その5

take

前回までのあらすじ

 その1~その3 は『俊カフェ』の建物の歴史。その4から『俊カフェ』を出て「界隈の歴史を見つける散歩」がはじまりました。
 南3条通りをはさんでお向かいは札幌最古の学校の流れを受け継ぐ「札幌市立資生館小学校」。地下の「メモリアルホール」には150年の歴史が展示されています。敷地の南西の角には『どんぐりころころ』を作曲した梁田貞の胸像があります。

資生館小学校前(西創成) という電停

 資生館小学校の南東の角は市電「資生館小学校前(西創成)」の電停。(西創成)と副称がついている電停はここだけです。札幌市交通局に問い合わせたところ,副称は住民からの要望によって加えられたとのことです。

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 この界隈は住所は「南〇条西〇丁目」ですが,一般に「西創成」地区と呼ばれています。資生館小学校の場所には1880(明治13)年以来140年間ずっと小学校がありました。学校の名前は何度か変わりましたが,1910(明治43)年~1965(昭和40)年の55年間「西創成小学校」だったため,「西創成」という校名が地名になりました。

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 2004(平成16)年に資生館小学校が開校すると,電停の名前が「創成小学校前」から「資生館小学校前」に変更されました。そのとき「西創成」連合町内会から《慣れ親しんだ西創成の名前を電停に入れてほしい》と交通局に要望があり,検討した結果(西創成)を副称として加えることになったそうです。

道幅の広い南4条通り

 資生館小学校のグランド側は南4条通り。中央分離帯に大きな木が植えてあって土地利用に余裕が感じられます。南3条や南5条通りが幅25メートル程度なのに対して南4条通りの幅はその2倍近い45メートルもあります。

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 ところが南4条通りは最初からこの幅で作られたわけではありません。道幅が広くなったきっかけはアジア太平洋戦争です。1944(昭和19)年にマリアナ諸島を占領したアメリカ軍は日本本土への空襲を開始しました。札幌も空襲に備えるために翌年4月に政府によって「建物疎開」が命じられました。 《空襲を受けたときに火災が広がらないように,建物を壊して空き地を作っておけ》というのです。その対象になった地域の1つが南4条通り。
 建物を壊して道を広げるといっても『北と南,どちら側の建物を壊すのか』と揉めたようですが,結局北側の建物を壊して道幅を45メートルに広げることになりました。
 南4条通りの道幅の広さ,それは戦争の遺跡なのです。

昭和22年

道幅が広い道路を見つけたら,もしかして

 1947(昭和22)年の空中写真をご覧ください。真ん中あたりが西創成小学校(今の資生館小学校)です。写真の中央を横切っている南4条通りの北側が白っぽくなっています。建物を撤去した跡です。このあたりに住んでいた人の話では,戦後はその空き地に闇市が立ち並んだそうです。
 よく見ると,ほかにも白っぽく写っているところがあります。写真の左側を南北に走る西11丁目(通称 石山通り)です。
 大通公園から石山通りを南下すると南6条から急に道幅が狭くなって,パチンコ屋さんの建物にぶつかります。ちょうどここまで建物疎開が実施されました。

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 実は,建物疎開の例は道内では小樽市や函館市にも見られます。takeは少年時代に函館にも住んでいたことがあり,「そういえば公園のように幅の広い道があった」と思い出しました。

 次回は,南4条通りをもう少し西へ歩いてみます。


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