【緊急投稿】優生思想〜あのメンタリストの負け戦〜
■はじめに
「ホームレスや生活保護に金支払うんだったら、世の中の猫を救ったほうがいいと俺は思う」
聞いた瞬間、呆れましたね。けれどそのもう少し前には、「自分は知らない人を救うよりも身近で大切な人を救う」と言う。まあこちらは納得してる人は多い。
しかし、その「知らない人」は猫より軽い命という事になる。
無論猫も大切な命なんで、どちらも救えれば幸いであろう。
しかし自ずと救える限界があり、しかも猫は飼育放棄による野生化や多頭化を防ぐ目的があるから、人よりも多く処分される。
社会が大きくなり、人命を選びわけて、片方をいらぬ命とする思想は、1600年代頃からヨーロッパで流行った「優生思想」と言うものだ。支配階級と被支配階級があったころは当たり前で、あの頃はまるでゲームのように農民を貴族が殺し、黒人や奴隷を簡単に白人が殺した。
今になって、この思想性は、再び復活ののろしを上げている。
それはお金による支配構造が生みだしたものである。
1.優生思想は自分個人の考え方という変な防波堤をつくる
命という視点で見た場合に、小さな虫から犬猫に至るまでの差異はほとんどの人が持っている。
果たしてそれを差別というか否かは友愛を名乗る人たちに聞きたいが、そうした虫や犬猫には「言葉が通じない」。つまりこちらの意志はどんなに努力しても伝わらないのだ。
そんな中でも犬や猫を別格視している人達は、恐らく100ある意志のうち、犬や猫が10ほどは理解してくれたのだろう。
しかし、それでも人とは別けている。
どうしてだろうか。それは、心のどこかに、信頼関係が築けない場合、何らかの害を与えてくるという危機感ではないだろうか。しかも奴らはそれを害とは認識していない。
従って、人とは命の重さを別けて考える。これは、優生思想とは言わない。ある意味自己防御なのだ。
対人間においてのみ、支配被支配という構造が、その中に何らかの差別感とその延長上にある己の位や力や財力に対する自信から、卑下するものと守るべきものを作り出し、相手を愚弄するのだ。これが優生思想である。
しかし、思想だから、なかなかそれを悪意とは認めない。
奴隷が虐げられてた時代ならば、むしろ当たり前の価値観であった。
日本では、優生思想というはっきりとは銘打っていないものの、この世に天皇という存在ができて以来、社会制度が優生思想を軸に作られていった。
だから農家の家に生まれた子は、大人になっても農家とされ、武士の子は武士なのだ。
武士制度が殆ど無くなった昭和初期に至るまで、その仕組みは延々と継がれており、今でも婚姻等に家柄を気にする例は少なくない。
これは、日本という島国ならではの全体主義思想と密接に繋がっている。
けれども、今は、社会の概念は限りなくその思想を否定し、人の命に優劣を持たない作りになっている。なぜなら財力も位も体力も、何人たりとも生まれ持った優越性は、支配する条件にしてはならないと憲法で決めたからだ。
国の内外を問わず、そのために様々な活動をしてきた人達の成果だ。
しかし、制度がいくら優生思想を排除しても、優生思想は思想なので、個人の中には脈々と存在する。
従って誰しもが、その片鱗として差別感情などが心に生まれれば、なんとかそれを表出しないよう努力している。
これは日本という国に生まれた以上、誰もが、生まれてから何十年とやっていることだ。
しかし、ある時、その努力をやめたり、つい表出してしまうことがある。
特に年齢を重ねた人や特定の強い思想に傾いた人に多い。
そういう人は大抵が、自己の中の悪意として表出される。
とあるメンタリストもそうなんだろう。
そのスイッチは自分が恩恵を受けた猫という種族の殺処分だった。抵抗したいという思いが変じて彼をそうさせた。周りがいつも礼賛してくれるから、己はそれぐらい言っても問題ないだろうと。
なぜこの猫たちは自分に恩恵を与えているのに殺されて、何もしてくれないホームレスや生活保護者は殺されないのであろうか。
彼の中に「自分ならファンを扇動してなんとかできるかも」という意識と優性思想と直結したのであろう。
そして、それを表出させてしまった。
優生思想な発言をした人は、どこかでそれを抑えるすべを持ち合わせていない。むしろ感情的に吐き出した方がラクだと感じている。
つまり、大人になる、社会人になる努力を惜しみ、抑える力を鍛えて来なかったのだ。
だから、これはあくまで個人の考えだと開き直り、修整する努力もしない。
数々の人がその個人的意識によって差別や被害を受けてきた。そして、それを無くそう減らそうと闘い、努力し、少しでも平和な国にしようとしてる人達迄傷つけた。
そんなことなんか、どこ吹く風だろうけど。
個人の考えだからといって、果たして何人の人が「そういう考えもあるよね」と認めるだろうか。
多くの人達は必死に抑えようと努力しているのに。
許す許さないは、本来は差別された当事者が決めるもので、我々傍観者の権利ではない。
しかし、我々の日々の自分の心に対する努力を否定されたことは、素直に怒って良い。
なぜなら、毎日毎日生活するために満員電車に乗って通ってる人を、そうでないところから笑っているようなものなのだから。
所詮は個人の考えだと言うならば、黙っているべきで、何らかの形で他の人に見せつけた段階で、怒られ責められても仕方がない。
2.優生思想からくる発言を謝罪するときの心得
思想なので、本来は見えないものまで含めて他人を侮辱しているので、単に「ごめんなさい」では済まされない。
思想ごと変えてもらわなくてはならないのだ。
「ごめんなさい」とは、「まあ罰は免じて下さい」と言ってることで、そこには真の問題点を解決した事実も努力も内包していないのだ。
「すみませんでした」も同様で、「処罰を受けずにはすまないことをしました」と、やはりこれもまた事象を語っているだけなのだ。
博識のメンタリスト君はその程度の事はわかっているらしい。
そこで、本来これをYouTubeで言ったのは、単に炎上しても視聴回数を増やして報酬を得たいからであったので、その下心ごと反省し、売上を寄付すると言っている。
また弱き立場の人を支援している環境に飛び込み、様々な勉強をしてくるとも言っている。
しかし、根本解決になっていないのは、ここまで読んだ人達ならわかろう。
そう、根本解決とは、心の中に巣食う優生思想を無くす、或いはとことん抑え、ふとした時につい表出しないように、彼自身が変わることだ。
寄付して話聞いてそれで反省しましたでは、大勢が納得しないし、それで彼がどこまで変わるのであろうか。甚だ疑問である。
しかし現実を見回してみると、ちょっと頭の回転が速い人で、こんな謝罪で、それほど頭が回らない人は、ただただごめんなさいをくり返すだけである。
誰もが失敗するんだからいいじゃないかという意見がある。
とても友愛に満ちた素晴らしい人だ。
しかし残念ながら、優生思想が強くある人は、その優しい声に反して、「誰も」に本人は入っていないのだ。
自分は別格の選ばれた人なのだ。
だから、それを変えてくれないと、仕方ないなぁ等と言えないのだ。
■さいごに
今回はSNSという文化が蔓延した性質上、問題が大きくなり、かのメンタリストくんは負け戦を強いられた。
つまり一種の社会的制裁である。
あまり良いこととは言えないが、その規制もまだない。
よって、彼に勝ち目はないのだ。ファンも何人かは翻ったであろう。自分で自分の首を絞めたと言っても過言ではない。
人は誰しもが、差別した相手と同じ境遇になりうる。
人種差別でも国や制度が変われば、差別される側になる。
従って差別されることは、なかなか防げないし、なかなか抵抗できない。
多くの人々はそれを知っており、それを理解しているからこそ、せめて、自分はそんな差別をしたくないと、差別される人を受け入れる社会を作ろうとし、そして困っている人を救おうと、努力しているのだ。
彼も「負け」を認めたならば、その努力を他人と同じぐらい費やし、その苦労を感じてもらいたい。
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