見出し画像

砂鉄おばあちゃん  

「あと1個~していれば」という後悔は、誰の人生にも付きものだ。

「あの時、あと1枚パンを食べていれば、こんなにお腹がすくことは無かったのに」
「あと1本ボールペンを鞄に入れておけば、インクが無くなりそうな今、最大限の筆圧でメモをとることもなかったのに(取材中)」

さまざまな、悔やんでも悔やみきれない「あと1個」。
だが私の場合、「あと1個」の後悔は、おもに衣服にまつわるものだ。

「あの時、あと1枚カーデガンをはおっていれば、冷房でお腹が痛くならなかったのに」
「なぜパンツの上にあと1枚、ガードルを履かなかったのか。ゴロゴロゴロゴロ(腹の音)」

大袈裟ではない。超胃弱の私には、冷えが大敵。腹痛は、たとえ熱い夏だろうと、クーラーにさらされた身体に容赦なくやってきて、身動きを奪ってしまう。

あるとき、こんな出来事があった。
私は大学生まで琴を習っていたのだが、その演奏会中に腹痛が襲ってきたのだ。

琴の演奏会の服装と言えば着物である。着物を着たことがある人は分かると思うのだが、着物の下着は襦袢(じゅばん)。薄手で身体に巻きつけるものなので、なんだか下半身が心もとない。スース―するのである。

そこに極めつき、太い帯でぐるぐる、ギューギューと締めつけるのだから、お腹に悪いことこのうえない。

「あと1枚、腹巻きを着けていれば」

やるせない後悔を抱え、ちくちくとした痛みを感じつつもリハーサルをやりすごす。だが腹の痛みは、本番を前にどんどん大きくなっていった。

あと10分で本番だ。我慢するか? しかし、ステージの上で万一トイレに行きたくなったらどうするのか。今回の曲は“連弾”と言って、二人でハーモニーを奏でる曲。中座は許されないし、第一、目立ちすぎる。

行くしかない!!!
 
決死の覚悟で立ち上がった私は、楽屋からホコリ臭い階段に走り出た。そして、着物の裾をむんずっと掴み、全速力で駆け下りた。目指すは、2階下にあるトイレである。

なんとか、無事飛び込んだのだが…2つしかないトイレに対して、3人も並んでいるではないか!!!


ここは、待つのみだ。
その時の私の顔は、厳しい戦況を眺める諸葛孔明のようだったかもしれない。今にも決壊しそうな腹と、焦る気持ちを深呼吸で沈めつつ、やっと順番が回ってきたのは本番5分前。死闘を終え、青白い顔でドアを開けた時には、本番が3分前に迫っていた。

慌てて手を洗って出て行こうとしたのだが…突然、背後から何者かに引っ張られた。

「ちょっとまって!」

声をかけてくれたのは、品の良さそうな高齢の御婦人だ。彼女の視線の先を見ると、私の着物の裾がバラバラになっているのが目に入った。帯もすっかり緩んでいる。慌てて走ってきたために、着崩れていたのだ。

終わった…と思った。
着物を直していたら、絶対ステージに間に合わない。

その時である。
トイレを出た時以上に青ざめる私に、奇跡が起こった。

さきほどの御婦人のほかにもどこからか、高齢の御婦人達が集まってきたのだ。まるで、砂場に落とした磁石に、砂鉄が吸い付くような素早さだった。彼女達は、「あらあら」「まあまあ」と口々に言いながら、一人は着物の衿を直し、もう一人は裾を直し、もう一人は帯を締め直してくれた。そしてもう一人は、ずり落ちかけていた頭の花飾りをプスリと刺し直した。

その間、約30秒。(体感です)。
私は紅白出番前の小林幸子さんのような気持ちになって、「ありがとうございます」「ありがとうございます」と言いながらトイレを出た。そして、降りてきた階段を、今度は着崩れないように細心の注意を払って、駆け上がった。

かくして、本番に間に合ったのである。

「袖振り合うも多生(たしょう)の縁」ということわざがある。
「道で人と袖を触れ合うようなささいなことも、前世からの因縁によるもの」という意味だが、この出来事はさながら、「袖直すも多生の縁」。

あの御婦人達となにかしら縁があり、磁石と砂鉄のように引き合ったのだとしたら。前世の私、グッジョブだ。

そして、縁は誰しもが持っているもの。もしかしたら私にも、誰かの窮地をサラリと救った日があったのかもしれない。

そう考えると、お腹の辺りがぼんやり温かくなった気がした。
まあ前世で、かもしれないが。



こちらの記事は、昨年から通っていた『さとゆみビジネスライティングゼミ』の課題として提出し、添削をいただき修正したものです。長い受講期間を経て書きたくなったテーマは、なぜか「腹痛と人生」でした。
お腹が弱い人生も、そんなに悪くないものです。ときどき書くので、ぜひ覗いていただけたら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?