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井坂勝之助 その1

見切り

浮きはぴくりとも動かない。
空気は澄み渡り、心地よい。
海は満潮時か川面は少し膨らんでいる。

「殿様・・・」
梅が徳利を掲げる。
「うむ」
梅は江戸では名の知れた料亭の娘である。
船梁に浅く腰を据えた井坂勝之助、梅の酌を受ける。
梅の頬は少し紅い。
化粧をしていないのである。
船頭のはからいで、徳利、お重を置く渡し板、梅の座る莚。
この船頭、なかなか気が利く。
名は竹蔵
数年来の付き合いである。
「旦那、そろそろ引き揚げますか」
「そうだな」勝之助にとって釣果などどうでもよいのである。
「露と落ち露と消えにし我が身かな、江戸の事も夢のまた夢・・・」
といった心境であろうか。

勝之助、竹蔵、梅と共に帰途につく。
「竹蔵、今夜は俺に付き合え」
「ヘえ」

勝之助、大身の旗本の次男坊、いわゆる部屋住みである。
だが、どうゆうわけか金に不自由したことは無い。

船留めから街までは、一里ほどか、急ぐこともなくゆるりと歩いていると、
「旦那、祠の前に・・・」
「うむ」
見ると、最近とみに増えた食い詰め浪人である。
通りかかった者から金品をゆすることを生業とする輩である。
「竹蔵、梅、うろたえるでないぞ。そのままでよい」
竹蔵は心得ている。勝之助から釣り竿、魚籠を即座に受け取る。
「旦那、三人です」
そのうち二人が、酔っているのか緩慢な動作で立ち上がる。
間合いは、十五間ほどか。
勝之助、丹田に力を込める、腰を据え、足の運びをやや緩める。
腰に帯びているのは、肥後同田貫正国、一振り。
間合い十間。
座ったままの浪人、刀は祠に立てかけ微動だにしない。しかし、視線は勝之助に据えて逸らすことは無い。
「こやつ、只者ではない・・・」と、勝之助。
このような状況での手加減は命取りになる。立ち上がった二人は、金のためなら何の躊躇いもなく人を斬ってきているであろう。
しかし勝之助にとっては、とるに足りない。問題は座ったままの浪人である。
殺気というよりも得体のしれない妖気のようなものを発している。
その浪人。
間合い五間ほどのところで、刀を掴み立ち上がる。
勝之助は、立ち止まり、眼を閉じる。大きく息を吸い、そして、ゆっくり長く吐く。
明鏡止水
勝之助が刀の束に手をかけようとした瞬間
件の浪人
「これは商売にならねえな」

浪人は、十五間先からの勝之助と立ち会っていた。
肩の盛り上がり、腰の座り、足の運び、一分の隙もない。
「一体どれほどの修行を積み、幾度の修羅場をくぐれば、このような凄みを帯びることができるのか・・・
とても己ごときが敵う相手ではない・・・」
と心の中で呟く。
「ご無礼仕った。ゆるされよ」と道を譲り、低頭する。
既に殺気は無い。
勝之助
「うむ・・・
いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ・・・」※
踵を返し、ゆっくりと立ち去る。
                               

※方丈記 鴨長明
鎌倉時代の随筆、吉田兼好の「徒然草」、清少納言の「枕草子」とならぶ古典日本三大随筆
に数えられる。
「いかが要なき楽しみ・・・」は、
「どうして役にも立たない楽しみを述べて、大切な時を過ごすのであろうか?」
と言ったほどの意味であろうか。

                           つづく 



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