言葉

 推しのシーズンが終わった。
 来シーズンは怪我と付き合いながらもどんなものを見せてくれるのだろうと今からワクワクする。
 ところで自分は「スケオタではない」と今に至るまで言い続けてきたのだけれども、ワールドのエキシを一緒に観に行った姉(しょまがお気に入り)にこう言われた。
「旦那がぶんげちゃんのことスケート詳しすぎて怖いって言ってた」
 工エエェェ(´д`)ェェエエ工いやいや素人に産毛がパヤパヤ生えた私程度で詳しすぎるってあんた……巷に生息するスケオタ様(真)に遭遇したら義兄は泡吹いて倒れるかもしれない。
 しかしこのときに気づいた。私はフィギュアにそんなに興味ない人からしたら、もうとっくに「スケオタ」なのだろうな、と。
 実は推しにハマりたての頃、私も「スケオタは怖い」と思っていた。だから滅多なことは言えないと。実際迂闊なツイすると「それは違います」とどこからともなく専門的な方がやってきて訂正される。これまで二次オタの経験しかなかったのでどんなふざけたことを言っても「それは違います」とは言われない。だってオタクの妄想なので基本的に全部違う。「それは違います」と言われたら「知ってる」と答えるしかない。
 しかしこの沼は実在の人物がおり実際の競技に関する世界なのである。発言は慎重にしなければならない。
 そういうある意味シビアな空気がなかなか新参者には厳しかった。なので、フィギュア専用のアカウントを作る気もなかった。あの世界に行ける気がしなかったからだ。ところがどっこい今やどっぷりこのザマである。

 そんなことはさておき、最近興味深い話を聞いた。
 今言語学などを学んでいて、日本語についての様々な側面を勉強させてもらっているのだけれど、先日「語用論」で「言外の意味」を私たちがどのくらい日常で無意識に理解しているのかを知った。
 例えば、一人が「この部屋暑いね」と言い、窓際に座っているもう一人が「そうだね、じゃあ窓開けようか」と言う。
 最初の人は「窓を開けて欲しい」とは言っていない。ただ「暑い」と自分の感じたままを口にしただけだ。けれど、「この部屋暑いね」という言葉には「窓を開けて欲しい」という依頼の意味が含まれている。私たちはそれを意識せず理解している。
 興味深いというのは、その授業での先生の以下の話。
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 ある実験があった。廊下があって、そこにドアが3つ並んでいる。
 手前からA、B、Cとする。そのドアすべてに『ノックしてください』という貼り紙がしてある。
 実験の参加者に、『いちばん奥のCのドアに入ってください』と指示をする。
 するとその人は、Aのドアを通り過ぎる際にノックし、Bのドアもノックし、そしてCのドアをノックして、指示通りCの部屋に入った。
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 おかしい、と感じるだろう。
 それは、私たちがドアに貼ってある『ノックしてください』という言葉を見たとき、言外の意味として、『この部屋に入る人はノックしてください』と理解しているからだ。
 この実験の参加者は、脳の一部を損傷している方だった。つまり、言語を読み取り字義通りの意味を理解するときに使う部位と、その言外の意味を理解する部位は違う。私たちはそれらを同時に働かせながらコミュニケーションし、生活しているのである。

 私はこの話を聞いたときに、ふと世の中に存在するヘイターのことを思い浮かべた。
 たとえば彼らは推しの「自分にとって負けは死も同然」という言葉について、額面通りに受け取り不謹慎だなんだと騒ぎ立てている。通常ならばこれが比喩であることは明白だ。しかも「〜も同然」と言っているのだから比喩の中でもダントツで明確にわかりやすい直喩(シミリー)である。また「死」という言葉には程度を表す表現の中で最上級の意味がある。「決死の覚悟で」「必死の思いで」「死ぬほど最高」「緊張で死ぬかと思った」誰でも使うだろう。最近では偉大な野球選手が現役生活を終えることを「死」に例えた。
 それを理解できないということは、なるほど、ヘイター達は言外の意味を理解する部位に何らかの損傷が……とはならない。なぜなら彼らは余計な「言外の意味」を作り出し付加することも得意としているからだ。メンドクサッ
 つまり意図的に、場合に応じて、「言外の意味」を理解する部位の働きを遮断し、そして「言外の意味」を歪んで解釈する。
 彼らはその機能を自由自在に使い分け、対象のどんな言葉でも自分たちの都合のいいように変えてしまう。というよりも、もう頭の中がそういう回路になっているのだろう。
 また、これはヘイターだけでなくファンにも言えることかもしれない。いわゆる『フィルタ』である。私の網膜及び鼓膜には「推し尊い」「推し可愛い」「推し美しい」などのフィルタが搭載してあるので基本的に何を見ても聞いてもそんな感じの感想になってしまう。いや、単純にそのまんまの事実ですのでね???フィルタとか何言ってんの???

 それにしても人間の言語とは何とも奥深く不可解だ。発した言葉は人によっていかようにも捉えられ、好きなように解釈される。
 しかしいかにネット上で呪詛を撒き散らすヘイターといえども、実生活でもそんなおかしな理解の仕方はしないだろう。日常での言葉の「言外の意味」を正確に把握できなければ、たちまち円滑なコミュニケーションはできなくなり、社会生活は立ち行かなくなる。「裏技を使わずに勝ちたい」と言ったとき「じゃあ他の人が裏技を使って勝ったと思ってるの!?」などと食ってかかれば、言われた方はひたすら困惑する。「猫が好き」「じゃあ犬は嫌いなの!? ひどい!」そんなやり取りを続けていたら周りには誰もいなくなってしまう。もしかすると、すでにそうなっているのかもしれないけれど。

 私は仕事で文章を書くこともあり元々言語そのものに興味を持つタイプではあったが、推しにハマって地獄界隈を目の当たりにしてから、ますます言葉の持つ力というものを考えるようになった。
 これまで一般的なファンと思われてきた人が、ある日を境に別選手のヘイターとなってしまった瞬間も目撃した。
 人は突然ヘイターにはならない。ずっと蓄積していったものがあり、それが許容量を超えた瞬間、あるいは何らかの起爆剤を得た瞬間に発現する。
 それまでの言葉にも、額面通りではない滲み出る「言外の意味」が見て取れた。起爆剤はおそらく「自分が正義である」という確信だろう。これまではその人物に嫌悪感を持つことに躊躇いがあり、罪悪感があった。しかしそれが消え「正しいこと」となった瞬間に、彼女はヘイターになった。
 他にも、これまで滲み出る程度だった「言外の意味」が咄嗟にそのままの言葉として出てしまうのも見た。
 誰にでも気に入らない存在はいるだろう。「言外の意味」を悟らせたくないならば、話題に出さないのが最も懸命だと私は思う。
 それもまた無言であることの「言外の意味」となってしまうのだが、実際の言葉から滲み出るものを感じ取らせてしまうよりはマシかと感じる。
 滲ませたいのではなく、はっきりと字義通りに主張したいのならまた話は別なのだが。

 言葉はふしぎだ。私たちを幸福にも不幸にもする。
 同じものを見ていても、同じ言葉を聞いていても、人によって見えるもの、理解する意味は様々だ。
 嫌いなものを歪んだ解釈をするためにわざわざ観察しに行くよりも、好きなものを見て喜びを感じ、心を豊かにする方がはるかに有益で建設的である。
 好きな人の言葉を見聞きし、受け止め、幸せなひとときを味わえるのは素晴らしいことなのだ。そういう発信手段を持たず、普段あまり目にすることのない人の言葉なら尚更である。

 ブログ、またどこかで続けてくれませんかね……。