キリスト教の教会について

あくまで私のひらめきである。

すぐわさんの動画を昨日、半分寝ながら聞いていた。
カトリックとプロテスタントの違いについて。

カトリックは豪華で、偶像も用いる。
キリスト教とは、いや、宗教とは、そんなにお金のイメージは無いのだが、確かに言われてみば、素晴らしい装飾が建物や服装に見られる。
それが幸福を生むものだと考える人が信じたいことだからだろうか。

そして、よく繰り返される平沢さんの言葉。
天と地が逆さま

プロテスタントはカトリックのあり方を否定することで派生した考え。
神を形にはしない。質素であること。

カトリックは人気を得るために、いろいろとビジネスをしたのだろう。
と考えるのがいちばん平和だ。

しかし、ひらめいてしまったので、一応書き起こしてみる。
文章にすれば、自分の考えがいかに馬鹿げているかが、客観的に見えるだろうから。

そもそも、カトリックが悪魔崇拝者が作り出したものだとする仮説。
私はただの無信教だから、どんなシンボルやらマークを見ても、何とも思わない。ただの形にすぎない。
しかし、悪魔は十字架が嫌いだという。
私からしたら、ただの棒きれなのに、「うわ〜💦」ってなるらしい。
本当にそうだろうか。
悪魔たちが演技をしているだけとか、ないだろうか。
だって、ただの2本の棒が垂直に交わってるだけだもん。
だとするならば、豪華が好きで、欲望のままに楽しく暮らしていきたい悪魔は、カトリック教会で儀式を行ったりすれば、それはもう簡単な話になるのだ。
悔っくきキリストの苦しむ姿を十字架に付けた像をありがたく拝む。
悪魔崇拝者が創設者ならば、悪魔につい熟知しており、都合よくルールを定めることができる。
私は新約聖書が苦手だ。あれでキリストの存在を信じようなどとは思えない。黙示録など、怖くて読みたくない。
おかしいと思わないか。
弟子の言葉が残っていても、キリストの直の言葉が無いなんて。
何故、フィルターを通してあるものを、そこまで信じられる。
奇跡と魔法の違いでもあるのか。

何故、サンタクロースは赤い服を着る。
物で子供の心を満たそうとする。
優しさであるのは確かだろうが、その信念はどこから来てどこへ向かわせようしているのか。

栄光や幸福の前に苦しみがある前提は何なんだ。

さも、そうであるかのように。

今は科学の時代であり、祈るよりも自ら行動する方が、期待したものを見つけられる。
しかし、無理に動かすことは星への負担になる。
神だの何だのの話ではなく、家の心配をしているだけだ。
気候変動と体調悪化に、何故だろうと頭を傾げる多くの人々。
エネルギー変換について見直してみたらどうだろうか。
そしてあらゆることを手放さなければ、サバイブできやしないことに気づくだろう。
誰かの犠牲の上に立ち、平和を祈るだけなどと。
心を喜びで満たす方法は、人それぞれであり、ビジネスの外にもあるはずだ。
無ければ、私たちの世代が訪れる前に人類は滅んでいる。

酒とは脳細胞の破壊によりふわりと浮く不思議な飲み物。
私にしてみれば、アルコールは悪しきものだ。
ワインを薦める者たちよ。

おかしいと思わないか。

大人が示した幸せな生涯というものに則ることが、あたかも常識であるかのように過ごす今の大人たち。
ついに私の世代がそれなのだろう。
自分にはマネできない、つまらない、などなど、理由を並べてやることもできる。
では、私も祈ることにしよう。
木を慈しむ時代が帰ってきますようにと。
それには、綺麗な空気と水と土、虫たち、それより大きな動物たち、目に見えない命の活動が必要になる。
あるから得る考えは、なるべくやめよう。
いらないならいらないだ。
必要以上とは、害になりえる。
これは周知の沙汰だ。
なのに、無きゃ不便だと言って、ストックしたがるんだ。

笑顔にも種類があるんだよ。

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