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パラリンピック期間の思い出。




ちょうどこの写真撮った直後
(わかりづらいが、写真はパラリンピックの集団駐車上になってた。夜は橋がパラリンピックカラーになる。)

後ろから、点滴を持ったおじさんが同じフリースペースに来た。
消灯後の11時半で、おじさんと2人きりであった。

おじさんは電話をしていて、私は1人で夜食を食べていた。
おじさんの帰り際に、話しかけられた。
「お兄さん、がんなんか?」

おじさんは、自身の身の上話をしてくれた。

「俺は50代の時から喉が痛くて東大病院に通ってたんだけど、何か原因かわからなかった。」
「ある時、近くの病院行ったら食道がんのステージ4ってすぐにわかった。それでここを紹介してもらったんだ。」

「近くの病棟に若い女の子がいるけど、君みたいな若い人がいると気の毒すぎる。代わってやりてえよ。俺はもう十分生きた。」

って話してくれた。
喉には大きな手術痕があった。私の隣の病棟は、食道系だった。本人が言うように、ほぼ間違いなく、食道がんのステージ4であろう。がんの種類はともかく、「ステージ4」は、がん細胞が原発部分からの全身の遠隔転移を意味する。またそれは同時に、死が近いことも意味する。

心配してくれた優しさからか、すぐに泣いてしまった。

でもそれと同時に、申し訳なさも感じた。

私はこの病院の紹介を受けて診察をした上で、腫瘍マーカーやペット検査から、がんの可能性は高くなく、少なくとも遠隔転移はありえない状況だった。もちろんそれは、済生会習志野病院やこの病院、さらには保健室で日大板橋病院の先生にも相談に行った上での話だ。(手術後の病理検査をするまでは確定診断はつかない)

そんな気持ちで、私はこの病院で手術を受けた。
その為、正直、「俺がんじゃないよな?仮にがんでも腫瘍マーカーにでないくらいなら、抗がん剤で必ず勝てる」くらいの気持ちでいた。

病院という高齢者の比較的多い環境であり、さらには「がん専門病院」であり、若年層は少ない。(がんは、疫学的に高齢者が多い)
その為目立ってしまうが、「私はみんなと違う」という思いは、心のどこかにあったと思う。

今思い返すと、最後の砦として、治験等の一縷の望みを欠けてこの病院にきた患者さんやその家族に、大変非常に失礼だと思う。
国立がん研究センター中央病院は、全国で数少ない「臨床研究中核病院」に指定されており、数多くの臨床研究=治験=未承認の最先端医療を行なっている。これらは、標準治療と言われる保険診療の治療を終えた人でないと受けることができないケースも多い。。。つまり、病期でいうと非常に重い方に限られるケースが多いのだ。

そのような病院であり、上のステージ状況下において、標準治療がおわり、効果が確立していない治療(治験)を受けている人もいるのだ。
それらに微かな希望をかけている人も少なくない。
むしろ、全国レベルで見ると最もそういった患者さんが多いだろう。

それに比べ、私は非常に恵まれているではないか。確かに手術痕は大きいし、服を脱げば必ず2度見されること間違いない。
しかしそんなことは大したことではない。少なくとも、私はあと80年は生きるつもりだ。

退院する前日の夜に、冒頭のおじいさんに会った。
明日退院することを伝えると、「元気でな。またどこかで。。って言うのも変か。」って一言言ってくれた。

医療には限界がある。そんな中、私はこれからも生きることができる。この病院でも亡くなる方も非常に多くいると思う。彼らの分まで、、と思わないが、少なくとも私はこれからも元気に過ごす義務があると思った。

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