呉の街のお話

ツイッターで積極的に情報発信されている「鳥八茶屋」さんに食事をしに行った時のこと。
板前さんと呉の街についてお話をしていたら、お隣の初老の方とお話をさせていただけて。
呉の街についていろいろと考えていらっしゃる方で、大変興味深い話をお聞かせいただけた。

■初老の方のお話

あくまでもこの話は「こういう歴史に基づくもの」であって、これがよい悪いと判断するものではない。
その時代と歴史の流れとしてそうなったものであり、それを踏まえてどうするか、という話。
それとあくまでこの初老の方に伺ったお話であり、全て裏を取っているわけでもない。


1.終戦で呉に遺されたもの

戦前の呉というのは鎮守府の街であり、海軍工廠の街だった。
当時、船舶というのは主力であり最先端の乗り物・輸送技術で、現代でいうところの高速鉄道や航空機、宇宙船に相当する。つまり「大和」を建造できた呉の海軍工廠は世界最先端の技術を持っていた。
加えて鎮守府の街として、海軍の高級官僚たちを接待する場でもあった。
結果、最高の文化・接待技術、造船技術、さらに造船のための人手が集まることになり、日本でも有数の人口を抱える大都市として成長していた。

そんな状態で太平洋戦争に突入。呉も爆撃を受けたが海軍工廠や鎮守府の設備は残された。
これは米軍がここにある技術と資材を欲しがったため、と考えられている。仮に文書がなくなったとしても、そこにいる人材であったり、多少なりとも残されているであろう資源を、終戦後に利用しようともくろんでいた、とされる。
その一方で、広島には原爆が落とされ、大勢の人が亡くなり、汚染された土地は使えなくなってしまった。
結果、現在の呉・広島を中心とした「安芸国」で、ある程度しっかり街として人、資源、インフラが残っている場所が呉しかなくなってしまった。
この状態で戦後が開始される。


2.「仁義なき戦い」の人たちは何を戦ってたのか

呉というとヤクザ映画、ヤクザたちが荒事で活躍していた場所、みたいなイメージもあるが、彼らが何を争っていたかといえば、この戦争によって「安芸国」エリアに残された技術、人材、資源、インフラだった。
生き残った人たちが生き永らえるために、鎮守府に遺された資源は貴重だ。
鎮守府の街の住民として、生き残りの人たちは多くの技術を持っていた。
進駐軍が入ってきて、その世話もしなければならないが、逆に言うとその人たちを世話するための資源が外から入ってくるし、仕事もできる
こうした資源・利権をめぐって、生き残った人々、進駐軍といろんな方面からの奪い合いが始まる。これが「仁義なき戦い」だった。
バスの運行のために工廠に残った油を回したり、進駐軍経由で入ってきた酒を横流ししたり。かなりの荒事をやることにはなったとしても、ある意味「ハードボイルドなビジネスマン」であったわけだ。
もっともそれはこの時代がそうだったからやむを得なかったわけで、ヤクザの荒事は許されるものではないとか、ヤクザも必要なんだとかそういう結論を出す話ではない。そういうことをして回さざるを得なかった時代だ、ということだ。


3.呉の誇り

遺された資源と技術を持って「安芸国」を支え、広島を復興させた自負をもつ呉。
しかしながら造船業はかつての勢いを失い、30年前の小学生に「斜陽産業」の代名詞のごとく教えられる(確かにそう教わった記憶がある)ようになってしまった。
その結果、呉の街に対して悲観的な意見を持つ市民の方も多い。人口は減る一方だとか、単線行き止まりの袋小路のような街だとか。そこに日本製鉄の呉製鉄所の閉鎖が決まり、さらにGoToが盛り上がり始めたところでコロナクラスター発生、と悲しいニュースが続いていて、本当に呉はどうなってしまうんだ、と意気消沈してしまっている方々もいる。
それでも食の話となると、誰もが自信をもって「呉の酒と食べ物は美味しい」と答える。地元のどこのお店に入ってもおいしいし、チェーン店は根付かず撤退してしまうのだとか。バーテンダーも西日本では大阪でも神戸でもなく呉が中心であり、現在のバーテンダー協会の母体となった組織も呉が発祥という。
呉の街の皆さんは、行く末に不安を持ちながらも「やればできるしその技術もある」という自信と誇りを胸にしている。


4.「混血」の話

一方、戦争直後の呉の街では、家族を全て失い、孤独に放り出されることとなった若い女性も多くいた。
その中にはいわゆる風俗で生計を立てざるを得ない人もいて、そういう人たちが進駐軍兵士の子供を産む、ということもあった。
当時はそうして生まれた子供たちは「混血」と呼ばれていたという。
兵士に見初められた女性の子供だけあって美しい人が多く、また決して能力も低かったわけではないが、決して裕福な家庭ではない。そんな中、どれだけ優秀な成績をおさめていても、こうした「混血」の人たちは公立高校には入れてもらえなかったのだという。
他の都市や他県の高校に通えるほど裕福でもなく、国立の学校はトップクラスの成績がなければ入れない。なので大半の「混血」の人々は中卒で働きに出ていたという。その容姿を買われてモデルや俳優になった人も多いとか。
その方も「混血」の同級生に、卒業してからどうしたらいいものやら、と相談されていたそう。
もちろんこれも「人種差別」がどうこうという話ではなく、そういう時代だった、そういう時代があったのだ、ということである。


■呉の誇りと街の魅力

さて、そんな呉の街で開催された2019年の呉イベント、そして今年の「エア呉イベント」だが、呉の街のもつ誇りと自信が前面に出た結果、街の魅力が大いに発揮されることになった、と感じている。
呉の方々は来訪する「艦これ提督」たちが何を求めているかを聞き取り、研究し、自らの持つ呉の食文化と鎮守府の街としての史跡をもって「どのように歓待するか」を追究してくださった。ポスターの掲示だったり、地元の食事のPRだったり、地元の産品を使った新メニューであったり、店や商品の飾りつけであったり。
もちろん「ビジネスチャンスを逃すわけにはいかない」という思いもあるだろうけど、むしろ「呉の街の誇りと技術をかけて、最高のものを提供しよう」という意気込みが伝わってきた。
確かに呉の方がおっしゃっていたように、呉の街は自分から出て行くタイプではないように思える。そのあたりは佐世保の方が上手、というか佐世保の「相手にとってベストなものを押しつけがましくなくすっと持ってくる」技術は、他の街では見たことがない。もはや魔術の域。
でも「相手や状況を研究・分析し、その結果をもって新しいものを打ち出す」力は呉の方が強いと思った。とても「エンジニア」らしい特質で、世界最先端の造船工廠を擁していた街、と考えるといかにも「それらしい」気がする。
結果として「面白いもの、楽しいもの、おいしいもの」があふれることとなり、「何日いても回り切れない」「結局大和ミュージアムもてつのくじら館も時間切れ」と提督たちに言わしめるほどになった、と思っている。
呉の街のエンジニア気質と技術力によって、呉は提督にとってロスを発症させるほどの魅力的な街になった。イベントがなくなっても呉を訪れたのは、イベント以外に見る場所、行く場所、食べたいものがたくさんあったからで、それは呉のみなさんが用意してくださったものである。

また、これはどこの街でもそうだが、日常的になりすぎて特徴だと感じていないもの、というのがあって。呉においては「海上交通」がそれに当たる。
山脈のように巨大な貨物船や豪華客船は東京湾でも通っているが、はるか沖合を通り岸壁に入って行くだけで、東京湾奥の横浜、川崎、台場、市川、船橋、幕張といったあたりに住んでいると、それほど近くで目にすることはない。
交通網も電車と高速道路で完結していて、東京湾の横断ですらフェリーではなく海底トンネルと長い橋で高速道路を通してしまう。水上交通は基本「観光用」で、以前都知事の肝いりで水上バスを通勤の足にしようとしたが、「遅いし不便」とあまり活用されなかった。交通手段が大混雑するコミケですら、水上バスは「観光気分で乗る第三の手段」ぐらいの扱いで、大半の人はモノレールと電車に並ぶ。
なので、港をフェリーや貨物船、漁船、コンテナを引っ張るタグボートが行き交う光景はそれだけで新鮮。バス並みの気軽さであっさり岸壁に着き、乗客が乗り込み、すかさず出港していく船、というのは乗るだけで楽しい。

こうして街の魅力に触れた「提督」たちは、また必ず来ようと心に決めて帰っていく。呉で見たもの楽しかったことをSNSに上げて、それを見た「提督」たちが今度は行くんだと心に決めるわけだ。
そしてそれを見た呉の皆さんが、次に来る時はまたさらに面白いものを見せよう、楽しませようと画策を始める。だからこそ商店街や協力した各商店の施策が去年のイベント時に比べて一段と大きくなり、多彩になった。きっと延期になった呉イベントが実施される時には、さらに輪をかけて面白いことになってるんだろう、と期待が持てる。
エンジニア気質の呉のみなさんなら、きっと「何か新しいことをせずにはいられない」と思うので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?