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終わりは始まり

我が家の白い犬モモコは、散歩の途中で突然かたまって動かなくなる。この宇宙交信が始まったら再び歩き出すのを待つしか無い。しばらく一緒にしゃがんでみる。5分、10分…。何を見つめているのだろう?目線を低く揃えてみるが、まるでよくわからない。

少し目の悪いモモコは五感をフルに活用して、私には見えていないものを見て楽しんでいるようだ。

同じ景色の中、みんな見たいものを見ている。
まるで世界は何層にも重なっているようだ。

黒い犬チャロ子は散歩中、あっちをキョロキョロこっちをキョロキョロ、せわしない。

日々セコム隊長のチャロ子に世界はどのように見えているのだろうか。遠くで物音がすると小さな心臓をパクパクさせて、目を、耳を、忙しく傾けている。

世界は幸せな場所なのだ…とか、自分は安全に包まれているのだ…とか、そんなフィルターで世を眺められていたのなら、こんな晴れた日の風は心地よく、鳥の声も美しいだろうに。
車に一度はねられた事のあるチャロ子にとって家の外は何が起きるかわからない怖いところなのだ。敵(= 子供と猫と車)はいないか、まったく落ち着かない。

大丈夫だよ。チャロ子に声をかけながら今日も散歩する。当然白黒2匹を一緒には散歩できないから、私の日課は毎日公園を2往復。

心の奥底にどんな信念を持っているかで、世界は何色にも変化する。白にもピンクにも、灰色にもスカイブルーにも。魔法が使えるのならチャロ子の信じる世界観をちょっとだけ穏やかなものに書き換えてあげたい。

今年もカレーの学校のアドベントカレンダーの季節がやってきた。ホントはカレーに絡めないと…なのだが、もはや一年の振り返りの良い機会にさせていただいている。この一年はモノの見方、見え方について考える事が多かった。

おりしも先日、昔、美容師をしていた頃にお世話になった上司が亡くなって10年目の追悼イベントがあった。冒頭で主催者さんがこんな事を話した。

人は二度亡くなる
一度目は
その人の魂が身体にサヨナラを告げたとき
二度目は
皆がその人を思い出すことがなくなったとき


スクールを作り全国から集まる美容師さんの技術向上に力を尽くした彼は今も沢山の人の心の中で生きていた。一緒に働いていた頃に彼がよく口にしていた

・後悔しない生き方をすること
・自分の目とお金と時間を使って経験すること
・誰に習うかが大事
・常に難しい選択肢を選ぶように

という言葉は、いざという時、迷った時、私の耳元に聞こえてくるような気がする。

9月にカレーの学校のみんなで歩いた和歌山県・熊野古道での2日目。序盤ですでにヘロヘロ、10歩進んでは立ち止まっていたような私に「バスに乗りますか?そのまま歩き続けますか?」という、最大級に甘く悩ましい選択肢が突きつけられた。あの時にもウッカリ、歩き続ける…という難しい方を選んでしまった。

(結果、熊野古道は私史上記憶に残る素晴らしい旅となった)

カラダを気力で運びながら、ようやくおしゃべりを楽しむ余裕が出てきた頃、山の緑が太陽の昇る位置によってパキッとしたグラデーションをつけたり、柔らかな良い感じの陰影をつけたり…と変化する事を教えてもらった。途端、光と共に呼吸する緑色達が視界に生き生きと入ってきた。一人なら下ばかり見て歩いていたはずだ。

誰かの世界観をちょっぴりのぞかせてもらった瞬間、あの時難しい方を選んで良かったと思った。

コーラが命の水に見えた!


カレーの学校の校長はよくいろいろ面倒くさそうな方を選んでいる。日常にある「面倒くさい選択」は別にやらなくてもイイじゃん?な気持ちに負けそうで、「難しい選択」をするよりもハードルが高い気がする。その世界観を想像してみる。

そこには簡単にできる事の何倍も沢山の発見が潜んでいる…ように見える。きっと日々鍛えられていくモノの見方は、ちょっと緩やかに、だいぶ柔らかに、かなり確実に違ってゆくのだろう。カレーから広がる尽きないアイデアにいつも驚く。

来年もあらゆる世界をのぞいて楽しく過ごしたいとおもう。美味しいものを食べながら、旅をしながら、沢山の人とおしゃべりして「そんな見方もあるんだな」を楽しみたい。世界はこうだと決めつけたりして退屈している場合じゃない。



♪曲は
ミッシェルガンエレファント
「世界の終わり」


# 終わりは始まり
# カレーが1ミリくらいしか出てきてない


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